六

「ななな何を言ってるんですか、探偵さん」

黄ばんだ髭を触りながら老人は、恐怖か何かでどもる葵をぎらりと見据えた。先ほどまで沢山のしわを浮かべてにかっと笑っていた老人と同一人物とは思えない顔つきである。

「あんたらにも、ここで幽霊になってもらおうと、そう言うとるんじゃよ」

真夜の目には、その遣り取りに関係なくゆらりゆらりと浮遊する霊たちの群れがはっきりと映っていた。老人は閉じた扉の前に陣取っている。真夜たちの立ち位置は、その向かい側の窓際だ。その間に行く手をさえぎるものは何もない。

 真夜はさっきまでせわしなく髭にやっていた右手で眼鏡を上げて、眉根を寄せる。正面にいる、得体の知れない老人から葵を守るように体を重ねて。

「あなた…………まさか、最近はやりの……」

それだけ言うだけで十分だった。

「そうじゃよ。霊を集めて売りさばく。とあるルートでこれを買い取ってくれる人がいるんじゃよ」

いかにも自慢げに両手を広げて話す老人。真夜は体を軽く沈め、いつ何かが起きても大丈夫なように前傾姿勢をとったが、老人がその扉の前から動く気配は全くなかった。

 どうやら、二人をこの部屋からは出さない気らしい。

「もともとお前を助ける気なんてなかったんじゃ。しかし感謝するわい。おかげで薄気味悪い廃校を練り歩く無駄な時間が省けたからの」

わけがわからないというように、葵少年はただ無言で震えている。その老人の雰囲気の変貌に、だろうか。

「霊を……なんだと思っているんです」

しかし雰囲気が変わったのは老人だけではない。

 真夜のいつもはふにゃっとした目つきが、今は鋭く老人を見つめていた。

「わしには金に思えるわ。ほれ」

と言って老人は、ポケットから手に入りきるくらいの小さな丸い小瓶を取り出し、よく見えるように挙げて見せた。透明な容器で、小さなフラスコのようだ。今は口の部分に栓がつめてある。

「見てみい。この瓶の中に霊を詰めて売るんじゃ。こいつは一度栓を開けば辺りにいるありったけの霊を吸い込んで、二度と出さないのじゃ。…………どうせなら、霊の数も多いほうがいいじゃろう?」

そういって老人は二人をねめつける。

「そんなこと、絶対にさせません。ここにいる霊の身にもなれば、許せるはずないでしょう!」

「霊の身?」

老人はかかと哄笑する。

「そんなもん、幽霊が弱いから悪いんじゃ! 力に、弱いものは屈するしかないんじゃよ!」

真夜は静かに口を開いた。

「なるほど力ですか…………私、あなたを止めます」

それを聞いた老人の哄笑はさらに大きくなる。手に持った瓶を、見せびらかすように高く上げた。そしてもう片方の手でその瓶の栓を抜こうとする。

 老人は真夜の言葉に、声高らかに返答する。

「どうやっ――」

瞬間、木造のロッカーが砕け飛ぶ音とおもに、何者かによって弾き飛ばされた老人が、はるか横方向の教室の壁に突き刺さっていた。

 代わりに、老人がもと居た場所にたたずんでいたのは、三つ編みの髪をふわりとなびかせた真夜であった。

 間近で見ていた葵にも、よく分からなかった。

 教室の後方の壁に背中から体をぶつけた老人はそれでもなんとか体を持ち上げる。驚愕に満ちた顔。

「うぐ…………な……なんじゃ、今のは……」

老人が見た映像。

 それは、どうやって? と叫ぼうとしたとたん、女が消えた、と言うものである。そう思った瞬間には、自分の右の横腹と背中に鈍痛を感じ、そして、あらぬ場所で起き上がっていたのだ。

 しかし真夜がとった動きは、単純明快。瓶の蓋をあけようとする老人に駆け寄り、右腕で、老人の体を左になぎ払うように裏拳を打ち込んだだけである。

「弱いものは力のあるものに屈するしかないんでしょう」

そういって老人を射る真夜の視線は、極めて厳しいものであった。そう言いながらも、真夜自身はその言葉を少しも肯定していない。そう思わせる視線である。

真夜はいつの間にかその手に持っていた小瓶を、老人に見えるようにあげてみせる。老人が真夜に打撃を打ち込まれた際に思わず取り落としていたものを、拾ったのだ。

「これを壊すんです。そうすればあなたの下らない計画も、全て破綻するんでしょう?」

そして、その手に力を入れ始める。細腕のどこにそんな力があるのだろうかと目を疑いたくなるほど力が、魔術によって強度強化されているはずの小瓶を粉々にし


「きゃッ!」



 ことん

 突如、真夜の手から小瓶が抜け、地面へと落下した。

 あと少しで瓶が壊れる、その瞬間、突然真夜の体を電撃のようなものが貫いたのだ。

「くっ……」

がた、と木造の地面に片膝を立てる真夜。その視線は部屋の後方で背中をさする老人に向けられていた。

「そうはさせんよ……あいたたた…………」

痛そうにしながらも、その顔には余裕が感じられた。優位に立つものの余裕である。

「嬢ちゃん知っとるか? 人間は生きている間、各細胞に少量の電気を持っておるんじゃ。そしてその電気は死んでからも…………霊になっても、極僅かだが残るんじゃよ」

真夜の目が驚きで丸くなる。

「あ……あなたは、霊のその電流を」

「そう。活性化したんじゃ。もちろん人に触れれは感電するほどまでに、のう」

「くっ!」

真夜は老人の言葉が終わらないうちに、霊の見えない葵のほうへと飛び込んでいた。真夜の体に、あのとき霊が触れていたのだ。

 電流を活性化された霊が、真夜に触れていたのだ。

 老人は背をそらせ、笑う。

「わしは、霊体電気を操る魔術師なのじゃよ!」

「葵さん! ああッ!」

 葵に到達する目前で、真夜は体をはねらせた。

「ままま真夜姉さん!」

わけのわからない展開に当惑する葵は、床に倒れこむ真夜に声をかけることしかできなかった。

 上半身を起こして真夜は、自分を心底心配げに見つめるなきそうな葵に、よわよわしくもふにゃりと笑顔を送る。

「だ…………大丈夫です、葵さん」

そういってよろよろと立ち上がる。少量の電気によっても、人間の体は脳から体の各部位に送る電気信号が狂わされてしまう。

 真夜が葵に飛び込んだのは、真夜の目に、葵に近寄る霊の姿が見えたからなのだ。

「ままままま真夜さん…………もももしかして、俺の身代わりに」

「葵さん。あなたは依頼主です……あなたをこんな危険な目にあわせてしまったのは、この私です…………」

「でも!」

真夜はうようよと動き回る霊たちの大群から葵を守るように立ちはだかった。葵と触れないように気を付けて、だ。

「この部屋の霊の数を考えると…………あの老人のところまで行くのは、不可能です…………」

真夜は息を整える。震えていた膝が即座に止まる。胸の動悸がおさまる。落ち着いて……落ち着いて考えるんです。

 この状況、どう打破すればいいのか。

 しかし、その思考を真夜に触れる霊たちがはばむ。霊の布のような先が触れるだけでも真夜の体を電撃が貫く。

「うッ……あぁッ……」

「ままままままやまや真夜姉さん……」

「ここは霊に困らん。お前たちも苦労するの」

他人事のようにそういって老人は、霊の大群の真ん中を分け入るように歩いていく。老人を避けるように、霊たちが流動した。

 そして、真夜が取り落とした小瓶を拾う。真夜の顔に、苦渋の表情が浮かんだ。

「あがッ…………はぁ、はぁ…………んぅッ!」

びくん、と体を刺す電撃に身をよじり、がくん、と何度も膝を折りそうになりながらも、真夜は何度も何度も危なっかしく立ち上がる。吐く息が次第に荒くなり、額には大量の汗が玉となって浮いている。髪も髭も、電撃を受けるたびに乱れていった。

「安心せい。まだこれは使わん。わしが不利になるだけじゃからの」

はっと真夜が気づく。

 老人の魔術は、霊がいないことには使えない。つまり、ここにいる霊を祓ってしまえば、老人はただの人間になる。

 しかし、と真夜は唇をかんだ。自分が動けば葵が危険にさらされる事になる。第一、魔術行使は精神の集中が大前提である。それを、こんな

「あぅッ!」

状況で、行使できるはずがない。

 なんにせよ、依頼主を守るのが第一に大切だ。

「どうじゃいわしのことをなめくさりおって。そこらへんに売っとるスタンガンとまではいかんが、結構痺れるじゃろうが」

 その老人の声に反発してか、葵はいつの間にかこぼれていた涙を、むき出しの腕で拭いて、言った。

「ままま、真夜姉さん! お、俺、本で読んだ事あるんです! 魔術から身を守るには、魔法円に入ればいい、って!」

「だ、ダメなんです…………」

しかし、真夜の答えは辛いものだった。

「あの老人が使う魔術の術式が…………私にはわからないんです…………あがッ! …………なにせ、あんな魔術を見るのは初めてですから…………対抗する術式が、作れません…………ぐぅッ」

「そそ、そんな…………まままま、真夜姉さん……!」

葵の目からはだらだらと涙が零れ落ちていた。自分のせいで、何時間か前に会ったばかりの人間を――ほとんど赤の他人である人間を――こんな目にあわせている。

「だ、だいじょ、うぶ、です…………」

しかし葵のほうに振り返った真夜の顔には、驚くべき事に笑顔が浮かんでいた。

 対抗するすべすら見つからないというのに。

 いつもどおりのふにゃっとした、見るものを安心させる、あったかくする笑顔だ。

「しし、しかし………ぐッ………………ファルに残ってもらったのは…………失敗でしたね……」

その真夜の言葉が終わらないかのうちに、老人がす、と霊を制止するかのように手をあげた。

 すると、霊の動きも同時にぴたりと止まる。

 真夜はよろよろになりながらも、どうしたのかと老人に目を向けた。

 ぎらついた目で、老人は葵を見据えた。

「おい、そこのあんたは霊に取り付かれてるんじゃったな」

真夜がその言葉の裏にあるものに気づく。今、葵は「霊に重なって」いるのだ。

 青ざめて、真夜は叫んだ。

「や……やめなさいッ!」

そんな言葉を聞く耳すら持たず、老人は口の端を吊り上げた。

「死ねい」

瞬間、葵の体がビクンとはねたかと思うと、

「あああぁぁぁあああああ!!!」

咆哮が教室全体を振るわせた。

「葵さん!」

 老人は、葵にとり憑いている霊を活性化したのだ。

「ああぁぁああ! ああ!」

外部の電気によって支配された体は、バランスを失い、床に転がった。目を見開き、口を開けて、四肢を震えさせている。

 しかしそれでも、老人が霊の活性化をやめる気配はなかった。それどころか、

「かあっかっかっかっか!!」

と、本当におかしいように腹を抱えて笑い出したのだ。

 ファルさえ……ファルさえいてくれれば! 真夜は自分を呪うが、もう後悔しても遅い。

「クソガキめ! 死ねッ! かかかっ!」

「ああっ! ぁぁぁああああ!!」

「この…………自分の目的のためなら何をしても良いというんですかあッ!! このぉぉおおおお!!」

怒りを込めた声をはじき上げ、最後のあがきのごとく老人に突っ込もうと真夜が腰をかがめた、

まさにそのときである。

 電撃によって床を踊らされていた葵の体が、ふ、と何かが途切れるように、その動きを止めたのだ。電撃が、おさまった。いや、

「な、なんじゃ! どういうことじゃ! 霊が、霊が………わしの金が…!」

先ほどまでうようよと群をなしていた大量の霊たちが、全て忽然と姿を消していたのである。全く予想外だったのか、老人は先ほどの哄笑もどこへやら、悲愴な叫びを上げた。

「わしの霊が! わしの霊が、消えていく!!!」




「消えたんじゃないぜ」




 その声は、凛と透き通っていた。

「私が祓ったのさ」

老人の叫び声が有ろうと、まるで別世界からの声であるかのように、耳にはっきりと聞こえるその声。

老人の背後の、いつの間にか開いていた扉の隙間は、背の低い人影を浮かび上がらせていた。

「ファルッ!」

真夜が叫んだ。

 よくみると、部屋全体を覆うような巨大な魔法円が、床に白く浮かび上がっていた。

 老人が小瓶をかなぐり捨てる。真夜に握られて強度が落ちていたのか、それだけでぱりんと音を立て、砕け散った。そして、そのまま老人は狂気の表情で、後方へと振り向く。

「なんじゃあ! 貴様はッ!!」

額に血管を浮かび上がらせ、老人は少女に殴りかかろうと、大きく腕を上げた。しかし、

「私なんかにかまってていいのか? もう来てるぜ」

 ファルは、眉毛すら動かさずに不気味に微笑むだけだった。

「あぁ?!」

老人がファルから目を逸らし、後ろを向く。

 その瞬間、老人の意識がスパークした。

 真夜のこぶしが、老人の顔面を捉えたのだ。

「電撃よりも怖い、衝撃が、な。うふふ……」

どさ、と老犯罪者は、声もなくそこに倒れこんだ。








 依頼ニ 6