三

「う〜む…………どこをどうすればいいのか分からん…………脱毛…………」

事務所の中にある扉を一つ開けた先、そこに、真夜とファルの私室がある。普段二人はそこの机で食事をして、二段ベッドで寝るという生活をしている

 外から見ればこの建物は三階分くらいの高さがある。しかし、外付け階段は二階までしかないし、建物内にも三階に繋がるような階段は見受けられない。しかし、実際三階はある。そう。三階に繋がるものは、はしごなのである。

 私室の二段ベッドの脇、そこに、三階に繋がるハシゴが存在する。上ったところには短い廊下が端から端まで一直線に続いており、その南側に、扉が三つ並んでいる。その中の一つの部屋に、今、ファルが居る。

 机が置かれた、幅の狭い部屋である。両脇の部屋が共に大きく、真ん中のその部屋は他の二部屋に圧迫されるように狭いのだ。

 しかし、狭い部屋を更に狭くしている要因があった。それは、部屋の両側に設置された本棚である。いや、本棚が設置されているというよりむしろ、両側の壁全体が本棚であるといったほうがしっくり来るだろうか。

 大量の本が、そこには無造作に並べられていた。太いものもあれば薄いものもあり、幾世紀を過ごしてきたようなものもあれば、はたまた真新しいものまで多種多様である。しかしその本たちの主題はほぼ『魔術関連』と言うことに一貫していた。そのほかに植物図鑑やその他小説なども多少は見受けられるが、その数は本当に少ない。

 しかし、下から上まで本で埋まっているこの本棚、その中から本が取り出されたことはほとんどない、と言うことを、埃のたまり具合が如実に語っている。

 ファルはその部屋の奥の机にだらりと腰掛けていた。

 うなり続ける事、これでもう一時間ほどである。その表情に、力という名のつくものはない。

「大体そんなに髭がいやならあいつがここに残って、私が葵についていけばよかったんだ…………」

そのとき、ファルの背後の扉ががちゃりと音を立てて開いた。

「お、ここにいたか。愚痴が道路まで聞こえていたよ」

扉を開けた侵入者は、楽しそうにそういった。

 ファルは振り返る事すらなく、答える。

「ふん、シノハルか。久しぶりだな」

「いやあ、それより君たちが引っ越したって聞いた時は吃驚したよ。なんで僕に教えてくれなかったんだい? 随分探したんだぞ」

不平をこぼしながらも、その声は楽しげである。

 吉野治彦、読み方はよしのはるひこ。それがこの男の名前である。歳は三十くらいだろうか、背は高い。しかしそれは真夜のようなひょろりとしたものではなく、比較的がっしりしている。そして適度に日焼けした顔と短く刈った黒の髪の毛が、大人の男を思わせる。太く真っ直ぐの眉毛と、しっかりした顎が頼りがいのある雰囲気を醸し出していた。無精髭が渋い。

 ファルはちらりと後ろに目をやった。

「何しに来た」

「機嫌が悪そうだな」

といって、口元に苦笑いを浮かべる治彦。

「今日は真夜が居ないようだけど?」

「あいつは仕事さ。私は居残りだ。脱毛の魔術を開発しろだと」

ファルの怠ける机まで歩み寄った治彦は、不思議そうな顔をする。

「脱毛の魔術? 君もそんな歳になったか」

「ばか! そんなんじゃない」

赤面して上半身を持ち上げるファル。そして、右側の壁に指を指す。

「私が今日そっちの部屋で新しい魔術の実験をしてたら、何を間違ったのかあいつの顔に白い髭がわさわさと……それを治すために、ってことだ」

「なんだか込み入った事情がありそうだ」

「そうでもないぜ」

「でもファル、君の力ならそんな術式考えるの朝飯前じゃないのか?」

そう言って本棚にもたれかかる治彦。

「私は興味のないことには本当に頭が回らんのだ。如何せん脱毛では…………やる気が出んのだよ」

「なるほど。そういう悩みのない自分には必要ないと」

「ばか!」

そういってまた赤面するファル。

 治彦はその視線をもろともせず、天井を見上げる。

「それにしても、髭を揺らしながら街を歩くなんて……真夜も勇気があるなあ」

「お前にもおんなじような勇気があると思うぜ。私は」

そういってファルは、治彦の着ている、花柄のパジャマをび〜、と引っ張った。

 あわてて治彦がそれを止める。

「やめてくれ! 伸びちゃうだろ」

「ピンクでよりによって花柄とは…………うふふふ」

にやりと不敵な笑みをうかべて、ファルは呟いた。

 治彦は、まるでおばあちゃんが着ているような、足の先や腕の裾がゴムですぼまるピンク色のパジャマを着ていたのだ。

「シノハル、私昔からお前の服装は変だなあと思っていたが、今回はものすごいぞ」

「僕は、人は外見じゃないと思っている。これで二五回目だよ。これを言うのは。それにここは僕の家からもかなり近い」

「それにしたって今はだいぶ日が暮れかけているぜ。もう寝る準備か?」

「いや、朝からずっとこのままさ」

「………………」

「億劫でしょ。着替えるの」

「…………この堕落人間め……」

ちッ、と舌打ちして、緩慢な動きでファルは背筋を伸ばした。

「そうそう。そういうしっかりした姿勢のほうが、君らしい。のらりくらりは真夜だけで充分だからね」

「ふん。さっさと用件を言え。回りくどいにも程がある。生憎お前と無駄話をするほど私はヒマじゃない。わけのわからん術式を考えなくちゃならんからな」

ファルの釣り目でギロリと睨まれると、治彦は苦い顔をして、

「君ねえ、わざわざ僕が君たちの引越し先を調べてだねぇ、はるばる訪れたと言うのにだよ、その反応は無いと思うんだけどなあ」

「用がないのなら帰れ」

治彦の言い分に耳を貸す様子もなく冷然と言い放つファルに、治彦はしょんぼりと肩を落とした。

「冷たいなあ…………」

ファルは椅子を治彦のほうに向けて、机に片肘を突いた。ワンピースの裾をはためかせ、足を組む。

 金色の髪の毛が一瞬乱れて、腕にかかった。

「調べるなんて、それこそお前にしたら朝飯前だろう。私はそれが言いたいんだ」

「君はそういうけどね、そんなに簡単なことじゃないんだ。そもそも情報集めと言うのは――――」

「ああ、あったよ」

ファルの声が、治彦の言葉を途中でさえぎる。

「あったって、何がさ」

「用だよ。そうだ丁度いいところに来てくれたな。そういえば調べて欲しいことがあった。こいつだ」

そういってファルは、ワンピースのポケットから一枚の紙切れを取り出した。しわくちゃになっているが、どうやら人物の写真のようだ。

「ほれ。さっさと受け取れよ」

「これは、誰かな」

写真の人物を覗き込み、治彦が訊く。

「そいつに関して調べ物をして欲しい」

「それはかまわないぞ。他ならん君の頼みだしね」

「ちなみに、そいつは自分の事を『探偵』だと名乗っているらしい」

「探偵? それは本名じゃないよな。それで、何を調べればいいんだ? 住所?」

「ああ、ついでだからそれも教えてくれ」

「なんだ…………てっきり、罵倒されるかと思ったのに」

「罵倒されたいのか?」

「あ、いや」

そういって苦笑する。

「ん……疲れてるのか? シノハル。なんだか今日は様子が変だぞ」

少し心配そうな面持ちで、ファルがたずねる。今の治彦はファルから見て様子が変らしい。

「いや……二人もの天才と相手してちゃあ、そりゃ疲れるよ。あ、今日は君だけか」

「天才ね、私にはぴったりの言葉だな。マヤマヤには向かないが」

「魔術分野では、だろ。その証拠に、君は五十メートルを走りきるのに十秒以上かかる」

何でそんな事を知っている、といおうとして、ファルは口を閉ざす。微妙な表情だ。

「ふん…………調べてもらいたいのは、そいつが、いかがわしい事をしているかどうかだ」

それを聞いた治彦の表情がこわばる。

「…………どっち方面の?」

「?」

「ああ、常識方面か、非常識方面かってことさ」

ファルは少し考えた後、ニヤリと不気味に笑った。

「言うなら、両方だ」

細くなった双眸が、鋭く窓の外を見据えていた。







 依頼ニ 3