八

 森である。
 実際は丘のようななだらかな傾斜の続く山なのだが、そのてっぺんは雑草一つない広場となっている。町からの距離も近い。
 その中心には、白いチョークでの円と三角形。
「本当はこんなに荒々しくするつもりじゃあなかったんだけれど…………邪魔が入りそうだったから」
円の中心には、一つの人影、そして三角形の中心にたたずむようにして、白髪の背の高い老人が直立していた。
 悪魔――三十一の悪魔の軍勢を支配する公爵、アガレスである。
 その腕には、恐怖でか気を失いかけた東が、力なく抱かれていた。
 広場の隅には一人の男性が倒れていたが、こちらは完全に意識は無いようで、ぞんざいに手足を投げ出していた。
 悪魔の腕に抱かれた東が、かろうじて薄目を開ける。
「な……んで…………」
弱弱しい声。それに反応するように、円の中心人物がくすりと笑った。

「大丈夫よ、お兄ちゃん

 ここで流れている風は、けして心地よいものなどではない。
「よく考えれば、お兄ちゃんだけでよかったわ。父さんを連れ去ったのは蛇足ね」
「み……南……」

「やはりな」

 知らない声の突然の介入。
 しかし円の中心の人影――東の妹、南は驚く風もなく、ただその声のしたほうに振り向いただけだった。
 闇の支配する木々の隙間から姿を現す二つの影。
 のっぽとちびの、二人である。
「一番初めのも、芝居だったんだな」
その背の低い一人――ファルがにやりと笑いながら言う。
 歯軋りをする音が聞こえた。南のほうからである。
「あなたの隣にいる悪魔は、アガレスですね。なるほど、どうりで逃げ足が速いわけです」
もう一人、ひょろりとした影――真夜がいう。
 すると円の中の南がなにやら指示をし、アガレスに東を下ろさせる。その動作は、非常に丁寧であった。
 そして、憎しみのこもった声で、
「お前たちも、私の邪魔をするの…………」
「邪魔、ですか……………… 私達はその東さんに依頼されたので、ここにきただけです。まあどっちにしろあなたの邪魔にはなるでしょうけれど」
そう言うセリフにも、どこか抜けていて、緊迫感と言うものに欠けている。敵意むき出しの南とは正反対である。
「ふん、あなたたちの目は節穴? ここにいる私の悪魔に気がつかないのかしら」
「ん? 爺さんのほかになんかいるのか?」
完全に相手をなめきったファルの声。
 二人の足取りが、次第に南との距離を縮ませる。
 その様子を見て、地面に倒れた東が必死に声を出した。
「だ…………だめだよ…………こ、ここに居るのは本物の悪魔だ…………君たちにかなう……相手じゃない…………」
月もささない夜なのでわからないが、その声からするに、おそらく東は今顔面蒼白に違いない。
 ファルと真夜の足取りが止まる。
「大丈夫だ、東。こんなヨボヨボに私たちが負けるわけないぜ。気を確かに持て。私達はお前の依頼を、必ず遂げてやる」
そういって、ファルがニヤリと笑う。
「その悪魔はお前さんが呼び出したものなのか?」
「そうよ。悪いかしら」
「そういった儀式の連続はあまり体によろしいとは思えませんが……」
真夜の言葉を聞いてか聞かずか、南が話し出す。
「私の魔術を見て思うのはそれだけなの? ハン、これだから無知なヤツらは困るのよ。魔術をちょっとかじっただけで魔術師気取りで、馬鹿みたいにでしゃばってくるんだから」
「む、無知で魔術師気取りですって、私たち。でも、複数形にだけはしないでほしいですよねッ!」
「お前は黙れ。…………言わせておけばいいんだ」
殺気立つ背の高い影――南。
 その傍らには、南の儀式によって呼び出された、悪魔の中でも上位である『公爵』の位をもつアガレス。
 そしてそれらに対峙する二つの影。
 二人には、何もない。
「偉大なるソロモンの悪魔喚起の魔術よ。悪魔は術者の命令を忠実にこなすの。……そう『ゲーティア』に書かれていたわ」
「『ゲーティア』…………『小鍵』の別名だな……いや、『小鍵』のほうが別名なのか」
そう言うファルの言葉が聞こえていたのか、いなかったのか、
「私は……私は誰にも計画を邪魔されたくない…………今まで散々邪魔されてきたから。だから……お前たちには、今、消えてもらう」
ふう、とファルがため息をつく。
「マヤ、依頼を遂げるには、まずはこの妹さんをどうにかしないといけないみたいだぜ。あの爺さんが邪魔だな」
「まあ……お決まりみたいなものですね、できればなるべく穏便に済ませたかったのですが…………」
「『風』は?」
「いりません。南さんを傷つけてはいけませんのでしょう? 私たちに依頼されたことは、あくまで彼女の救出ですからね」
満足げに笑うファル。
「ふふん…………ちゃんとわかってるじゃないか」
「伊達に長く一緒にはいませんよ」
そういって、真夜の顔にもふにゃりとした笑みが。
「なにをごちゃごちゃと言っているのッ!」
南がたまりかねた様子で叫ぶ。
「私は……私の意志を貫くまでよ! あんたたちのようなただの人間なんかに、止められるとでも思っているのッ?!」
南が腕を上げた。
 老人。
 人間に見えるが、その正体はまぎれもない悪魔である。
 全身から瘴気ともつかぬ何かを発している強大な悪魔。人間なら、ただの一度も触れる事かなわないだろう。
 表情は見えない。その長い白髪が、まるで下方からの強い風にあおられるかのように、舞い上がる。
 悪魔の全身からの威圧感が、辺りを支配した。
「来るぞ、マヤ」
ファルと真夜が身構える。
「今の敵は目の前の悪魔だ。とりあえずそいつを何とかするんだな」
「分かってます」
「マヤ、一分だ」
そういって、ファルが真夜の背中に自分の掌をそっと触れさせた。
 瞬間である。
 真夜の体が一瞬、光を帯びたように見えた。
「……大丈夫ですか?」
「心配するな、短くはないさ。準備するには充分だ」
南が叫ぶ。
「笑えるわね、何のおまじないかしら! きっと神様も見届けてくれたでしょうねっ!」
ファルの手が離れる。
 南がアガレスへと命令する。
「汝悪魔アガレスよ! 術者西空南に真実の答えを! さあ、目の前の二人を二度と立ち上がれなくしてしまいなさい!」
瞬間、空気が切り裂かれた。
 表現のとおりである。まるで幾つものかまいたちが起きたかのように、何かによって空気ごと地面が切り裂かれ、その跡が幾筋もの傷跡となって、ファルたちの足元に残っていたのだ。
 奇跡的に二人は無傷であったが、反射的に顔を覆っていた腕をゆっくり下ろすと、
 老人の姿が忽然と掻き消えていた。
 二人と、悪魔との勝負が始まったのだ。
「さすがに公爵となると、一味違うぜ……一分、頼むぞ」
「言われなくても」
「まずは、そのおチビちゃんよ!」
南が指をファルに突きつけてそう言うがはやいか、ファルの目の前には老人が――二メートルは軽くこえているであろう悪魔が、既にその身をあらわにしていた。
「でかい……」
そう言いながらファルが悪魔を見上げた。
 しかし、ファルが見上げたのは、悪魔の背を軽くこえる『上空』であった。
 
 空中に、悪魔が逆さになって浮かんでいる。

 ――悪魔が飛び上がった。
 傍目にはそう見えたかもしれない。
「ファル。今のはどうしたってのんきすぎますよ」
呆れた声で、真夜が呟く。
 しかし実際、悪魔は飛び上がってなどいなかった。もちろん、浮かんでいるわけでもない。
 もともと、これは悪魔が能動的に行った行動ではないのだ。
 その証拠に、命令主である南の顔には呆然とした表情が浮かんでいる。
 ――悪魔が飛び上がった。
 当然、彼女もそう思ったはずだ。
 しかし悪魔にも感情があるのなら、一番あっけにとられているのは、その悪魔自身だろう。
 悪魔が上空へと投げ出されるその数瞬前。
 しっかりと真夜を凝視していたなら、その体が一瞬消えたように見えたはずである。
 実際には自分の後方――ファルの前方に悪魔が現れたほぼ同時に振り返り、しゃがみこむ。そして、その体勢から体のばねを使って跳ね上がるのと同時に、想像をまるで超えるような速度でこぶしを上空へと打ち込んだのだ。
 もちろんその攻撃の対象は、悪魔である。
ファルが笑う。
「仕方ないじゃないか。あれは不意打ちだ」
「もう……」
そういって眼鏡のずれをくい、と直すと、わけの分かっていない南を尻目に、真夜は膝を急激に曲げ、
 飛び上がった。
 人間の体が、あっさりと空中高くに舞い上がり、そして老人の巨体にかぶさるような体勢になる。
 その腕は、引力によって今にも地上へ落ちようとしている悪魔の両肩を、不自然なほどの強力さで掴んでいた。
 少女の両足が、ひと時、霞んだ。

 瞬間、地面を裂くような轟音と、一面をおおう砂煙があたり一帯を支配していた。
 空中高くから、真夜が悪魔を蹴り落としたのである。
 空中で悪魔を踏み台にワンステップ踏んでから、真夜はいともたやすく地上十メートルほどの高さから着地した。
 着地音すら聞こえなかった。
 着地時の全ての衝撃が、真夜の脚と体の屈折運動によって地面へと逃がされたのである。
 舞い上がる砂煙に耐えられず、ファルは腕で顔を覆っている。
「けほっ、けほっ………………穏便に、じゃなかったのかよ」
真夜が、す、と立ち上がった。
「え? そんなこと言いましたっけ。私はキムチさえあればいいんです」
「ないよ。キムチないよ」
のんきと言えば、ファルよりもこちらのほうがのんきそうである。その顔には、いつもと同じようなふにゃっとした笑みが浮かんでいたのだ。
 湧き上がっていた砂煙は、吹く風によって次第にかき消されていく。巨体が落下した時の地面の有様を、嫌がおうにも観衆に見せつけ始める。
 悪魔の姿は、まだ見えない。
 しかしおそらく、砂煙が完全に消えた暁に目に映るものは、恐ろしい衝撃によって生じた凄惨な筋目と、そして、立ち上がった、悪魔の姿であろう。
「そ……そんな…………」
南の、驚愕ともとれる声の表情。
 これだけ呆然とするのも無理はない。
「な、なんで人間が? ……悪魔に触る事すらかなわないはずなのに…………」
目を見開くその顔に、つつ、と冷や汗のようなものが流れ落ちる。
 ファルがその質問に答えるかのように、
「マヤは私のちょっとした術によって、今、そういう存在に『触れる事のできる』体となったのさ。まあ、ああやって互角に戦えるのも、マヤのもともとの格闘センスあってのものだがな」
南の近くで気を失いかけていた東が、夢でも見ているかのような表情で、ぼそりと呟いた。
「君たち…………一体、何者…………?」
頭だけを上げて今までの展開を見つめていた東に、マヤは視線だけを向け、微笑んだ。
 悪魔はまだ見えない。
 ファルが一歩、南へ向かって足を踏み出す。
「くっ……」
完全に劣勢と見たのか、反射的に後方へと退こうとする南。しかしすぐに何かに気づいたかのように、下げかけた足を止めた。
「動けないよな」
ファルのあざけるような声である。
「お前の下には今魔法円がある。術中に、術者がその魔法円から出ることがどんな意味を持つか…………うふふ……魔術師きどりじゃないお前には、分かってるはずだぜ」
「くっ…………」
魔術を行うときの、魔法円。
 それは術式中において、悪魔やその他の霊などの存在から術者を守る、という意味を持つ。
 ――自分が喚起した悪魔は、自分には危害を加えない。
 そんな間違った思い込みは、時に死を招く。悪魔は、誰にとっての悪魔でもあるのだ。
 そんな悪魔から術者の身体と精神を守るのが、この魔法円なのである。
 悪魔は、まだ見えない。
 焦燥する南に相反するように、ファルは落ち着き払っている。
「イメージの視覚化が何故魔術師にとって尤も重要なのか」
ファルが言う。
 東はふと、図書館での出来事を思い出した。
 ファルはまた一歩、南との距離を縮める。
「それは、視覚化によって生み出されたイメージは、それと同じものが実際にそこにある場合と、全く同等の意味を持つからだ」
「いッ、いきなりなんなのッ! そんなこと分かっているわよ!」
まるでその声を無視するかのように、ファルが続けた。
「つまり視覚化が完璧にできれば、魔術儀式に必要な道具やらが全くない状況でも、それらを全て視覚化によって補う事で、魔術を行う事ができると、そういうわけなんだぜ? お嬢さん」
「ッ!!」
砂煙が細くなる。
 がらり、と何かが崩れる音がした。
 闇夜の静寂の中に、悪魔が再び、その巨体をそびえたたせていた。
「! ファル」
とっさに動こうとした真夜の前に、それをさえぎるようにファルの手が差し出された。
「もう一分過ぎてる。あとは私に任せろ」
悪魔の復活に飛び上がるようにして、南が叫んだ。
「さあ早くッ! 汝悪魔アガレス! 私の命令をッ!」
その命令に、巨体の悪魔が揺れた。
 いや、実際には揺れるようにして移動しているのだ。しかしその動きはすこぶる鈍い。
 だがそれだけでもその悪魔が与える威圧感は十分であった。まるで先ほどの攻撃のダメージを受けていないようにすら見える。
 ファルが、迫り来る恐怖を無視するかのように、呟いた。
「いいかお嬢さん。という事はだぜ、視覚化が完璧にできる私は――」
悪魔が、次第にファルへと迫る速度を上げ始める。
 しかしファルは悪魔のほうへと体を向けただけで、退く事すらしなかった。
 数メートル先の、地を揺らす巨体。
 それに向けて、ファルが右手をす、とあげた。
 そのとたん、まばゆい光が視界を勢いよく貫いた。
 発光源はファルの足元――
 南の足元にある、チョークで書いたそれよりも、ひとまわりは大きな魔法円が、ファルの足元に出現していたのである。
 何が起こったのか理解できていない、そんな表情が、南には浮かんでいた。
 アガレスとの距離が縮まる。
 一瞬、ファルがニヤリと笑みを浮かべた。
「――何処でだって魔術、行えるんだぜ」
その声が終わるのとほぼ同時に、轟音が放たれた。
 ファルとの距離を詰めた悪魔が、人の頭をこえるほどの大きさのこぶしをファルめがけて突き下ろしたのだ。
 しかし轟音は、強力な振動を伴い、地面を走ったにすぎなかった。
 ファルは直撃するすんででバックステップを踏んでいたのだ。
 発光する魔法円の中心は、後ろに跳び退くファルの足にそって、すべるように地面を移動した。
 ふわりと、ファルは地面に着地する。
「うふふ……終わりだぜ、悪魔アガレス。私の儀式によってさっさと退去するんだな。私は接近戦は苦手なんだ」
悪魔はこぶしを地面につきたてたままの格好で、全く動かない。
「アッ、アガレスッ! 何をしているの、立ちなさい! 立ってその女を早くッ!」

 いや、動けないのだ。

 既に彼の足元には、悪魔を拘束する印――魔法三角形が、ファルのときのように静かな光を放ち、浮かび上がっていたのである。
 悪魔は決して、原則にそむく事はできないのだ。
「お嬢さん、お前が『小鍵』によって悪魔を呼び出したのなら、私もそのやり方でこの悪魔をもとの世界へ退去させる事にするよ」
南の表情がゆがんだ。
「やめろぉッ!!」
ファルの視線が、悪魔へと注がれた。
「汝悪魔アガレスよ、術者ファルメリア・テルミドールにより、汝があるべき場所へと発つ事を許可する」
「くそっ! くそぉッ!」
静かであるはずのファル声の声は、南の怒号にかき消される事なく、あたりに凛と響いていた。
「退却せよ。我は汝が穏やかに、そして速やかに退去する事を求める。そして、神による平穏と恩恵が、我と汝の間に永遠に続くように……

……汝悪魔アガレス、退却せよ」

 そのファルの声が響き終わった瞬間、アガレスの足元の魔法三角形が、まばゆい光に包まれ、その周りをつむじ風が一凪した。
 つむじ風によってふわりと少量の砂埃が舞い上がる。
「あ……そ、んな……」
魂が抜けきってしまったかのように地面に膝を折る音。
 足元の円と三角形も光とともに掻き消え、ファルが腕を下ろした。

 砂埃が消えたところに残っていたのは、むなしく広がったひび割れのみであった。

「終わったぜ」
ファルのその顔には、皮肉な笑みが浮かんでいた。魔術によって渦巻いた空気のせいで、その髪は乱れている。
 その人形の隣に、背の高いマネキンが並ぶ。
「…そんな……………他人が喚起した悪魔を…………退去させてしまうなんて…………」
呆然とした様子でくずおれている南。尤も、呆然としているのは兄も然りである。
 真夜がふにゃりと微笑む。
 腰に手を当てたファルが、ニヤリと目を細める。
「うふふ…………魔術を少しかじっただけで馬鹿みたいにでしゃばってくる無知な魔術師気取りは、どうやらお嬢さん、お前のことだったらしいぜ。大体本を読んだだけで魔術師を名乗れると思ったら大間違いだ」
「言いすぎですよ。せめて――」
「うるさい黙れ」
「ううう……」
二人のやりとりには、緊張感と言うものの欠片もない。
 細い体格からは想像もつかない体術を繰り出すのっぽ。
 そして、幼い体に膨大な知識と魔力を兼ね備えたちび。
 この二人の前に、南はなすすべを知る事すらできなかった。
「さあ教えてもらいましょうか」
ノッポの、うずくまる南に向けた声。
 く、と南は首をもたげた。その顔に、悪魔を使役していた時の怒りともつかぬ形相は見られなかった。
「なぜ、こんな事をしたのかを」

 南の双眸から、何かが、つ、と下った。

「お兄ちゃんと…………ずっと一緒にいたかったの……」

 くずおれた南の下の魔法円は、幾度もの衝撃と風圧によって、ほとんどその姿を消しかけていた。






 依頼一 8