依頼一  相談事務所「赤い月」

   一

 人通りの全くといっていいほど無くなった夜の通りには、恐怖がつき物である。
 特にそれが、ほぼ唯一の光源である街頭の心細い光すら届かない細い道だとしたら、その恐怖は増すばかりであろう。そしてそう云うシチュエーションで姿を現すのは、決まって実体の無いようなものなのである。
「ここですね……噂の場所は……」
「しかしこれは……すごいな」
それは、この二つの人影が今訪れている「噂の場所」でも例外ではなかった。ある町の、大通りのわき道を奥へ奥へと進んだ、闇の支配する小道である。もちろんその幅の狭い道の両側は、家の高い塀で囲われていて、嫌でも閉塞空間にいるような感覚に陥らされてしまうのである。
「とんでもない数の……霊ですね。これは明らかに異常ですよ」
「……この場所のことは?」
「最近この辺りでの目撃情報が特に多かったので……もしや、と…………」
「ふふん」
しかしそんな、夏だと言うのに異常な寒気が辺りを覆い、異常に孤独感を煽るような場所にいるというのに、その大小二つの人影は少しも怖気づいてはいないようであった。
「この霊の停滞具合は、何らかの魔術儀式のあとの祓いをおごそかにしたため、でしょうか……」
「そのようだな。しかもこれは……おそらく、ゲーティア……」
わけの分からない言葉が、二人の間には交わされていた。二人の言う大量の「霊」という存在を、まるで無視してでもいるかのように。
「まさか…………ソロモンの魔術がここで行われていたと、そう言うんですか?」
「ああ。少なくとも私にはそう見える。儀式中にあたりにいたありったけの霊が集まって、その儀式が終わった後に、術者がしっかり仕事をしなかったせいで、集まった霊はこの場所から離れることができなくなった……そんな具合だろうぜ。この霊の停滞の仕方と量は……伊達じゃない」
噂の場所。それは、この町の人々の「霊を目撃」した場所のことなのである。
 小さなほうの影が、後ろに立っていた背の高い影を自分の背後から下がるように手で指示した。
「まあ、とりあえず小儀礼で祓うだけ祓っとくぜ。これ以上ここに長居されても困る」
そういって小さな影が両手をす、と左右に上げた、その途端である。

 路地を飲み込んでいた闇を、突然強烈な光が一瞬にしてはらい去った。あたりの光景が昼以上の光量によって白く照らし出される。思わず背の高い影は腕で顔を覆った。
「霊です! 多いですよ!」
長身の慌てた声が響くのも無理は無い。
 両手を上げた小さな人影のその数メートル離れた先には、この狭い路地を埋め尽くすかのごとく大量の白い何か――霊――が互いにうねりあい、存在していたのである。
 その数え切れないほどの霊の群れはまるでそれだけで一つの物体であるかのように絡み合い、おどろおどろしい白光を放ちながら球に近い塊を作り出している。
「うふふ……大丈夫だよ」
突然姿を現したその霊たちは、荒々しく猛々しく吼えた。耳が遠くなるほどの嫌な不協和音である。そして霊たちは、その底の無い敵意を目の前の人影――自分たちを消そうとする敵に、向けた。今まではただうねりあっていただけの、大人一人ほどなら容易に飲み込んでしまいそうな大きさの霊の塊が、その体を小さな人影へと、勢いよく一直線に飛ばしたのだ。
 しかし人影のほうもすでに行動を起こしていた。
 影の上げた両手の位置には、その人影の背丈など軽く越えてしまうような白黒二つの柱が何処からともなく現れ、そしてその足元には複雑な模様をした六芒星形が、静かに浮かび上がってきていたのだ。
「遅いよ……うふふ」
目前に迫る霊の大砲にひるむことさえせずに、小さな人影はおもむろに体の前で腕を十字に交差させる。そしてその小さな唇が震えるように動いた。
「イシスとオシリス、嘆きと立ち上がりのサイン」
霊の突進の勢いであたりの空気が烈風となり、めちゃめちゃに、顔の前で十字を構えた影に叩きつける。長い髪と服が音を立てて激しくなびいた。しかしそれでも、テープを早送りにしたような口の動きは止まらない。
ARARITA L,V,X, ルクス」
人影の左右の柱が振動し始めた。霊が人影に迫る。影の口が動く。そしてそれと連動するように、足元の六芒星形は薄い光を帯び始めていく。
 霊がうなりを上げる。噛み千切らんばかりに、襲い掛かる。
 その一刹那前。
 人影の腕の隙間から、その目が不敵な笑みを浮かべるのが見えた。

「十字の光」

 その声がまわりに聞こえていたかどうかは定かでない。


 狂気の咆哮が、闇で静まった町一面を貫いたからである。






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