八

 目を開けたら、目の前に少女が居た。

 そのまま僕に笑いかける。

 そんな幻想を何度思い浮かべただろうか。

 僕の周りは、既にもう無機質なコンクリートとアスファルトだった。僕の足はひとりでに、まるで決まりごとのように道路を曲がる。家に向かっているのだ。もう、砂埃が立つ事は無かった。

 振り返る事は一度もしなかった。

 不安だったのだ。もう戻れないとは分かっていても、振り返ったところに、アスファルトの道が続いているだけであったら…… そう思うと、振り返るような勇気は僕には無かった。

 そう言えば、僕は道に迷ってあの町に辿り着いたのではなかったか。其れなのに、もう僕の目の前には見慣れた玄関がある。

 家々に電気が灯っている。そんな時間だというのに、道路には人が群がっていて騒がしかった。

 とぼとぼと僕は、いつもの通り玄関のノブを回した。その途端、今までのあの不思議な経験はすべて、夢の中のものだったような感覚が沸いてきた。

 現実には無かったものなのかもしれない。そう思いながら、僕は言う。

「ただいま」

靴を脱いでいると、案の定エプロン姿の母さんが駆け寄ってきた。

「あんた何処行ってたの。たまに外に出るなと思ったら、こんな時間まで遊んできて。全く。ん? なんだかいつもより元気が無いわね。どうかしたの?」

この生活が嫌なわけではない。母さんだって好きだし、この家が恋しいことに変わりはない。

「ちょっとね」

「まあいいわ。其れよりも四葉ちゃんから電話かかってきたわよ。こっちからかけるって言ったから、はやくかけてあげなさい」

「は〜い」

なんだろう。

 僕の誕生日でもないし、四葉の誕生日でもない。母さんの誕生日であるはずも無い。

 ではなんだろうか。

 想像力が乏しいのには苦労する。

「もしもし。ああ、四葉か。今日電話かけてきたって? なんの用だよ。……………………ああ………………今日? ああ、だから外に人がいっぱいいたのか。う〜ん…………どうしよう………………」

母さんに視線を送る。即座にうなずく母さん。どうやら、会話の内容は以前から知っていたようだ。

「ああ。うん…………いいよ。じゃあ、僕がそっちに行くから」

そうして僕は受話器を置いた。

 着替えて四葉の家の前まで行くと、既に四葉がそこに立っていた。呼び鈴くらいなら押したのに。

「やあ」

僕が呼びかけると、四葉は其れに気づいて僕に冷たい視線を送ってきた。

「たらお!」

そうだった。

 僕のあだ名はたらおだった。

 今までずっと忘れていた。僕は今、この世界のたらおになった気がした。

「あんた朝会ってから何処行ってたのよ。何度も電話したんだからね」

「僕だって知りたいよ。何処行ってたのかなんか」

「はっはーん。わかったわ。あんた迷ってたのね。道に、迷ってたのね」

図星だ。いちいち言い方がいやらしいと思った。

 しかし迷っていると意識していた時間はそんなに長くないので、半分不正解だ。

「なんでもいいよ。どうにでもしてくれよ。見に行くんだろ。こんなところで話してるのもなんだから、行こうよ」

「う〜む。そうね。私、いい場所見つけておいたのよ」

四葉の見つけた場所と言うのは、家からかなりはなれたところにある、小高い丘のような場所だった。ふもとから続く階段を上れば、人知れず神社があるそうだ。

 長い階段を上り終えると、最近植えられたのか、背の低い木々に囲まれて、どこかで見たような賽銭箱と神社が、夏の夜の空気の中に、静かに鎮座している姿があった。

 僕の胸に、何かが刺さったような感覚が起こった。

「ほら、人もいないし。いい場所でしょ。木も低いからよく見えるしね」

「ああ……いい場所だよ」

僕は胸の感触に疑問を抱いたまま、四葉がやったように、背の低い木の幹に背中を持たれかけさせた。そのとき、僕は気づいた。

 忘れるはずも無い。この場所は…………

 僕は吃驚して思わず立ち上がる。と、ポケットに何かを感じた。手を入れると、やはりそこには何か薄っぺらいものが入り込んでいた。僕自身がポケットに何かを入れた覚えは無い。

 取り出してみる。

 暗くてよく分からなかったが、どうやら小さな封筒のようだ。

 四葉は気づかない。

「もう一寸で始まるね」

「………………」

おそるおそるその封筒の口を開けてみた。

 そこに入っていたのは、折りたたまれた一枚の紙だ。この暗さでも、かろうじて字は読める。僕はその字を追うことだけに、神経を尖らせた。

 読み進めるうちに、僕は体が震えてくるのを感じた。一体いつ、この封筒を僕のポケットに忍ばせたのだろうか。

 声が出そうになるのを必死にこらえて読み終えると、僕はもう一度その手紙が入っていた封筒を見た。

 四隅が、少し湿ってふやけていた。

「……たらお、どうしたの? さっきから妙に静かだけど……」

そう言う声など、僕の耳には入らなかった。目の前の手紙と封筒だけを、僕は見つめている。

 声が出そうになる衝動が、その瞬間、僕の体を突き動かす衝動へと変わった。

 僕は手紙を掴んだまま、何かに取り付かれたように駆け出す。

「あ、ちょ、何処行くのよ! たらお!」

急な僕の行動を理解できず、そう叫ぶ四葉。

 しかし僕は、そんな声は聞こえていないかのように一目散に階段を駆け下りる。実際、聞こえてなどいなかった。

古ぼけた鳥居をくぐる。しかしその外の道路はアスファルトである。

 構わない。僕の足の向かう先は既に決まっている。

 空が暗い。

 空気が熱い。

 脚が痛い。

 それでも、僕は走る。なんとしてでも、急がなければならない。

 通りを走っていくほど、人通りはどんどん少なくなっていった。コンクリートの民家も少なくなってくる。

 もう少しだ。

 もう少しで、辿り着く。

 山が見える。

 あの一角を削り取って作られた、墓地。

 そこに、あと少しで辿り着くことが出来る。

 あそこに、あるはずだ。いや、ある。

 僕の手に握られている手紙に書かれた名前と同じものが記された、墓石が。

 そこで僕は少女に会う。

 古い町並み。幼い少女。それらはもう見ることは出来ない。

 しかしそれでも僕は少女に会うのだ。

 笑った顔、怒った顔、悲しんだ顔。そうだ。

 あれが嘘のはずが、夢のはずが無いではないか。

 あの空気の感覚。

 温かみのある町並み。

 元気よく遊ぶ子供たち。

 川のせせらぎ。

 山の大きさ。

 僕の頭に焼き付いて離れない、あの少女。

 目頭が熱くなる。

 僕は居る。

 少女はもう居ない。それでも、僕は彼女に会える。

 そして、一緒に見るのだ。

 隣に並んで一緒に見るのだ。達成できなかったものを。彼女と僕の、最後の願いだ。

 背景が滲む。脚がもつれ、思わず転んでしまった。膝に怪我をしたようだ。見てみると、砂埃が僕の脚を覆うようにふりかかっていた。

 僕は其れを見て、途端に嬉しくなった。

 立ち上がる。僕の目には滲んだ山がうつっている。

 僕はまた走り出す。

 一緒に見るのだ。

 また、あの時のように隣に座って。

 今日の花火を、一緒に見るのだ。

 赤い着物の少女が、目の前で微笑んでいた。




















    歳違いの少女 終わり