七

 結局罰ゲームを受けたのは僕だった。川を見つけてから彼女を追い越せば、勝てる! と見込んでいたのだか、僕の足では到底追いつけるものではなかったのだ。そしてその肝心の罰ゲームというのが…………まあ、言うのはやめておこう。唯一ついえるのは、川の水は本当に冷たかったという事だ。経験した事の無い、あの体の芯を冷やす感覚。

あれは本当に恐ろしかった。

 それから僕たちは何時間か川で遊んだ。川の冷たさに体が慣れるまでには結構な時間がかかったが、それでも日が暮れかけるころまではそこに居たと思う。

 彼女の言ったとおり、川辺には誰も居なかった。一つの秘境じみたような印象を僕はそこに抱いた。川底の見える透き通った水の流れと、その水を求めようとするかのように垂れ下がる木々の枝たち。殆ど山の中の川であった。

 川沿いに乱れて鬱然と茂るその樹木達は、比較的細い川の片端に薄暗がりを作っていた。

 部分的に足が付かないような深いところもあったので、そこを通って影のところまで泳いで行ったりした。

 彼女と一緒に居る間、僕は目のやりどころを始終探すことと、手足をちょこっとばかし動かす事しかしていなかった気がする。

 その彼女はといえば、川に辿り着くなりワンピースとぞうりを脱いで薄いシャツ一枚の姿になると、そのまま川へと飛び込んでいったのだった。心臓麻痺にはくれぐれも気をつけたほうがいい。それに、そんな格好では目のやりばに苦労しても仕方ないというものである。そして彼女は川から顔を出すと、僕に笑いかけながら、罰ゲームを宣告したのであった。

 彼女は体力があるだけでなく、泳ぎも兎に角うまかった。現に、僕が知らずに深い場所へと流されていってしまい、足がつかないのに驚いておぼれそうになったときも、颯爽と助けてくれているのだ。そんな彼女に、少しだけだが泳ぎも教わった。当然のごとく、殆ど上達はしなかったが。そしてその間もやはり視線の落ち着き先に困り、始終彼女の顔ばかり観察していたように思う。濡れて水玉の滑り落ちる髪がとてもきれいだった事が印象に強く残っている。

 そうして彼女の家に着いた頃には、もう既に空も暗みがかってきていた。冷たい川に入っていたためか、涼しげな感覚が、道中空気を切って歩くごとに感じられた。兎に角僕たちは、遊びつかれて彼女の家へと戻ってきたのだ。

「そういや……ああ…………やっぱのびとるか」

机の上には食べかけのそうめんがあの時のまま残っている。いや、麺が少し膨らんでいることを除けばの話だか。

 少女は少し考えてから、そうめんの入ったボウルを担いで、部屋から出て行ってしまった。

 少しして戻ってきた少女に僕がたずねる。

「食べないの?」

「ううん、あとで食べる。もってえねえやん」

そう言うと彼女は、ここに座っといて、と僕に促した。

「ちょっと待っといてね」

床に腰を落ち着ける僕に、少女は軽く笑いかけると、天井へと手を伸ばし、上から吊り下がっていた電球を取り外した。何をするつもりなのだろうか。

「少し暗いけど、辛抱してよ?」

「うん」

僕がそう言うと、彼女は先ほど取り外した電球の入ったソケットを持ったまま、部屋を出て行ってしまった。おそらく、他の部屋へと持っていっているのだろう。電球が一つしかないから、色々な部屋で同じ電球を持ち運んで使っているのだ。其れがこの家の唯一の、光源なのだ。

 僕は、少し湿っている服の感触を感じながら、床へと落ち着いていた。その唯一の光源がこの部屋に無く、外からの光を頼るにも頼れない今の状況では、この部屋の中は相当暗い。空は、暗くなり始めてから真っ暗になるまで、そうそう時間はかからないものなのだ。

 これでは、乾くものも乾くまい。

 川から上がった後、暫く川原に寝転んで濡れた体と服を乾かしていたのだが、まだ少し湿っている。

 僕は少女の消えた扉のほうへと目をやった。何をしているのだろうか。気になるところだが、ここで待っていてくれと言われたのだから、そうしたほうが良いことには間違いない。僕は姿勢を少し崩し、窓の外へと視線を戻して、また川遊びの余韻に浸ることにした。

 入道雲を浮かべた、心がとろけてしまいそうな青空。

 流れる水や、飛び跳ねる水滴の冷たい感触。

 静けさの中に繰り広げられた、僕たちの声と波の音。

 木々や川や夏独特の、すがすがしいようなあの香り。

 そして、風景を鮮やかに彩る、彼女の笑顔。

 気づいたら、長い間川などには行ったことも無かった僕の顔には、笑顔が浮かんでいた。僕は遊ぶという事の、人と触れ合うという事の素晴らしさを、いつの間にか忘れてしまっていたようだ。

 本当に、あんなに楽しかったのは何年ぶりだろうか。

 思えば僕は今までずっと、部屋の中に引きこもってばかりだったように思う。

 そうだ。

 僕は思う。今日、僕は家に帰らなければならないのだ。その毎日に戻らなければならないのだ。

そう考えると少し陰鬱な気持ちになる。一度家へ帰ってしまえば、僕はもう二度とこの町には、あの少女の居る町には戻ってこられないような気がしていたのだ。

 僕は心地よい浮遊感と少しの不安を感じながら、太陽も沈み切り明るさは無いものの、静けさを取り戻した町の風景を、暫くの間窓からただ眺めていた。

「いやはや、暗い中ご苦労さんでした」

静かな空気の間を滑り込むように、不意に聞こえてきた少女の声。少女は静かに部屋へと入ってきて天井へと手を伸ばした。暗くてよく分からないが、どうやら電球を天井から垂れ下がった紐のようなものに引っ掛けているようだ。

 向こうの部屋での用事は既に済んだらしい。その少女の手で、この部屋の電球に光がともされ、一瞬にして暗闇が取り払われる。暗いほうに慣れていた僕の目にその光は強すぎて、思わず手で顔を覆った。

 しかし、元からたいして強い光ではなかったようだ。証拠に、すぐに僕の指の間からのぞく物たちは輪郭を取り戻しつつある。

「ちょっとまぶしいか」

その声の調子は、少し弾んでいるようにも僕には聞こえて、そちらに目をやってみる。もう随分目もなれたので、手で覆うのをやめようとして、そしてそのとき初めて、僕の目の前に綺麗な赤い色があることに気づいた。僕はそこで思わず、背筋を伸ばした。

 僕の少し驚いたような表情を見てか、少女は頬を僅かに赤らめて照れたように言う。

「これ……着とったんや。もらいもんやけどな。ほら…………今日、あれやろ? やで…………」

僕の目の前には、少女が立っていた。しかしのその服装は僕が今まで見慣れた空色のワンピースではなかった。

 そう、鮮やかな赤が綺麗な着物を、纏っていたのだ。

 この土気色の部屋の中、その中心に、少女が赤い着物姿で僕の前に立っていたのである。それはところどころに花の模様があしらわれた着物で、仄かに黄色みのある帯が、少女の体と着物を一体化させるように巻かれていた。

 僕は何も言うことが出来なかった。

 実際褒める言葉なら沢山思いついた。しかしそれらは全て、僕の唇より向こう側に行くことなく、消えてしまったのだ。

 するとその赤い着物の少女は、壁に背をつけて座っている僕の隣へと歩いてきて、腰を落とした。

「たんと遊んで疲れたか?」

「う、うん」

「私もえらてかなわんよ」

と、少しも疲れた様子の無い声で言う彼女。

「そ、そう」

少女のくすくすという笑い声。

「そんなにかたくならんでもええよ」

「かたくないよ」

こうして会話していると、今はなんだかさびしい気持ちになってくる。彼女と離れたくないという気持ちが、強く僕の心に訴えかけるのだ。ぴたりとくっついた僕の右肩と彼女の左肩が、そんな僕を一層責めるようであった。

 彼女の気持ちが分かれば。

彼女はどう思っているのか、其れが知りたかった。

「まだ始まるまでにはちょっと時間あるで」

「あ? ああ」

花火のことを言っているのだろう。

「せめて一度くらいは、あんたが帰ってまう前に、これを…………」

そう呟いて、少女は自分の着ている着物をそっとつまむ。

「………………」

一体それはどういう意味なのだろうか。僕には少女の言葉に隠された真意に気づく事は出来なかった。

「私、ちょっと寝るわ」

「寝るの?」

「疲れたでな」

そう言っていつものように、花が咲いたように笑うと、少女は膝を抱えたまま、少し俯いた。本当に寝るつもりだ。

 僕はそんな彼女の様子を少し伺ってから、気づいた。

 少女は、起こしてくれ、とは言わなかった。そしてその途端、先ほどの少女の言葉の意味を漠然と理解する事が出来たのだ。

 僕は伸ばしていた足を腕の中へと納めた。何かを守るかのようにぎゅっと丸くなる。

 少女の、かすかな吐息。ぴたりと触れている体。

 この町を離れるのは嫌だ。

 出来る事ならここで暮らしたい。

 僕は視線を少女から逸らして、ぎゅっと目を瞑った。少女は何を思っているのだろう。今日の一日で、たったの一日で、何を考えて、何を思ったのだろうか。

 僕は、離れたくないと思った。

 たったの一日程度で、恐ろしいほど感情移入してしまっている僕が居た。

 この町から一度抜け出したら、

 もう戻る事は出来ないかもしれない。

 道路を歩けば埃っぽくて、路面電車が走っていて、今にも壊れそうな木造建築がずらりと並んでいて、看板の文字は右から書いてあって…………少女がほほえんでいるこの町には、もう二度と、戻ることはかなわないのかもしれないのだ。

 しかし、僕は帰らなければならない。

 其れが僕が今日の朝、自分で決めた時間制限なのだ。

 帰りたくない。離れたくない。

 しかし、元の僕の家へと帰らなければ――――彼女とこれ以上同じ時間を共有すれば、彼女と一緒に花火を見れば、見てしまえば、僕はもう、同じように元の家には帰れなくなってしまう。帰りたくなくなってしまう。今よりも、ずっと。

そのことに少女は、多分気づいていたのだ。

 目を開けると、古ぼけた木造の壁が目に入った。家の外の道路には、人が集まってきている頃だろうか。其れにしては嫌に静かだ。

 少女はもう寝てしまっただろうか。

 ちらりと、横目で確認する。黒いおかっぱと腕に隠れ、いつかのように顔は見えなかった。着物の赤が、最後の色のように思えた。

 こうやって少女の横に座るのは、これで何度目だろうか。

 途端に胸が締め付けられるように痛くなって、思わず手でぎゅっと握った。

 もう少しで花火が始まってしまう。

 其れが、タイムリミットだ。

 僕に残された選択肢は一つしかなかった。つまり、其れは選択肢ではないという事。

 花火が始まれば、僕は帰れなくなる。しかしそれ以上に、僕がここに残る事は、彼女にとってもいけないことのような気がした。僕はうすうす感づいていたのだ。この町が、どういう場所なのかという事を。

 彼女は僕の隣に居る。

「………………ありがとう……」

僕は決意したのだ。

 ゆっくりと、立ち上がる。少女を起こさないように、ゆっくりと。

 胸を締め付けられながら、後ろ髪を引かれながら僕は、玄関へと向かう。

 そのときである。

 うしろから、すすり泣くような声が僕の耳に届いた。

僕は思わず目を硬く瞑って、そして思い切り、

 走った。

 玄関を飛び出して、道路にわらわらと群がっていた見物客たちを押しのけて、僕は我武者羅に走った。

 やはり、思ったとおりであった。

 少女は、全てを知っていたのだ。

 僕は少女のその深い苦渋の心遣いを感じながら、走った。