六

「……………………」

神の社へと続く石段の、その一番初めの段に、僕たちは腰掛けていた。

 あの子供たちはもう追ってきてはいないようだった。今考えると、よく僕の足であの子どもたちを巻く事が出来たものだ。多少の痛みは伴うものの、ここまで逃げてくる事が出来た。それに、少女には、逃げる際肩に石つぶてが当たった程度で、そのほかには目立つ怪我が殆どなかったのである。其れが僕にとって一番の成果に思えた。

 その少女はといえば、今僕の隣で、あの時のように座っている。僕らの座るここに、日光は差してこなかった。それは、両脇の木々がそれをさえぎっているのではなく、空に浮かぶ不穏な雲が丁度太陽にかぶさっているのだ。

 昼前元気よく走り回っていた子供たちは、一体何処へ行ってしまったのだろうか。今ではその声すら聞くことが出来ない。唯一、蝉の声らしきものが、ただの風景だけであるかのようになびいているだけだ。

 長い沈黙だった。なんだか嫌な気分だ。

「怪我、しなくて良かったね……」

隣の女の子は俯いたまま、こくりと小さくうなずいて見せた。とりあえず話しかけてみただけである。これといって意味は無いし、この問いかけほど今の状況に的外れなものはないということは、自分でもよく分かっていた。

 ふと、道路の脇に竹の棒が突き刺してあり、そこからとめどなく水が噴き出しているのが見えた。

 初めて彼女とであった時の、微笑む顔。

 神社で見せた、子どもたちを眺める懐かしそうな顔。

 服が欲しいと言った切なげな顔。

 そうめんを褒められて嬉しそうだった顔。

 いつもの笑顔。

 そしてあの剣幕。

「……………………」

少女の声が一言でも聞きたいと思った。

 僕は複雑な心境のまま、自分の右に腰掛けている少女をちらりと流し見る。

 体操座りのように脚を腕の中へと無理矢理ぎゅっと畳み込んでいて、心なしか、昼だというのにその空色のワンピースがくすんで見えた。痩せた足首が、走っている時にふりかかったのか、砂埃で薄汚れていた。足先の薄い下駄の鼻緒の赤も、華やかな色ではなくなっている。そしてその顔は、両腕にうずめるように俯いていて、ここからでは表情をうかがうことが出来ない。うまく切り揃っていないおかっぱが目立った。

 その下から覗いていた優しいはずの眼が、あんなに険しくなっていたことが、僕の頭からどうしても離れなかった。

「…………ごめんよ。僕が勝手に家を出て行ったから…………あんな事になっちゃったんだ」

自分の声が遠くで聞こえる。本心だ。僕は首を垂らす。

 少女の俯いたおかっぱが、ふるふると左右に揺れる。

「…………………………そんなんやないて……あんたのせいやあらへんよ……」

とても小さな声であった。

 しかし、この石段へと腰を落ち着けてから聞いた、初めての彼女の言葉であった。

「あんたがおらんかったら…………あの時私をひっぱってくれへんかったら…………私は今頃顔から血ぃ出しとったわ」

体を丸めているせいで、その声がくぐもって聞こえる。

「なんで…………」

「……………………ん?」

僕には訊くことが出来るのか?

「なんで………………」

「なんで、はこっちやて」

その声に、僕は少女に向き直る。

 依然として顔は俯いたままだ。僕の方を見ることもしない。

「なんでなんやろ…………あの子ら………………なんで、自分の大切な人を殺した奴らなんかに……お菓子くれなんて言えるんやろ………………」

「……………………」

「なんで…あいつらは…………人殺しといて謝りもせんと、大威張りで闊歩できるんや…………おかしいよ」

「……………………」

その肩が、震えていた。声も、途切れ途切れであった。

 先ほど言い合いをしている時、僕は彼女が怒りに身を任せているのかと思っていた。しかし、其れは違っていたんだ。

 彼女はくじけそうになる心を必死で抑えて、隠して、叫んでいたんだ。彼女の叫ぶ姿が何処か気丈に見えたのも、そのせいだったに違いない。理不尽な問題によって泣き出しそうになるのを必死にこらえていたんだ。

「なんでや…………うッ………………わけがわからへん………………なんで……………………グス……」

涙声が伝わる。

 僕にはどうすることも出来ない。どうすればいいか、分からないからだ。どうすればいいのか。どうすれば、彼女は泣き止んでくれるのか。

 おそらく、泣き止む事が最終目的ではないのだ。

 僕は、見守るしかないのだ。

 俯いた少女は、いつもよりも小さく見えた。そしてその肩は、いつまでも小刻みに震えていた。それから暫くは、短い嗚咽のみが、僕の耳に届く全てであった。

 あの子達の過去。

 進駐軍たちの過去。

 大人たちの過去。

 この町の過去。

 そして、すぐ隣にいる少女の、過去。

 僕には分からない。

 彼女の気持ちを分かってやる事などは、誰にも出来ない。

 僕は、彼女に優しい言葉をかけることもできない。出来るはずがないではないか。

 だから、そっと、その肩を抱こうと思って、ゆっくりと右腕を上げる。そして、その腕が少女の肩に触れそうになったとき……

「ご、ごめんな……急に泣いたりしてまって…………」

ぱっ、と少女の顔が持ち上がった。その双眸は、僕に向けられている。その瞳は赤く濡れていて、ばつの悪そうな表情が少女の心境をいやと言うほど物語っていた。僕の腕は自分でも知らぬうちに引っ込んでいた。

「謝る事じゃないよ」

どうもさっきから僕の言うことは的外れな気がする。しかし、それくらいしか今の僕に言える言葉はない。

「ああ、そやけど……」

小さな声で言い、少女は僕から目を逸らす。そして数瞬、間が空いてから、その小さな唇が言いにくそうに動いた。

「…あんたの前では、笑っとりたかったんやけどな…」

「えっ……」

「血……でとるよ。ほら、後ろ向いてみい」

「………………」

僕は無言でその言葉に従い、彼女に背を向けた。後ろからの視線がとても痛く感じた。

 不意に何かが僕の首筋に触れて、僕の心臓は大きく波打つ。すぐに其れが彼女の指だという事が分かり、更に鼓動が激しくなるのと顔が火照ってくるのを感じた。

 その指は、僕の首筋を撫でるように上へとゆっくり進んでいく。恐らく、流れた血をたどっているのだろう。

「や、やめなよ…………手、汚れるよ……」

「汚れへんよ……汚くないもん………………私の代わりの、傷やに…………」

僕は胸が締め付けられる想いを感じて一度は目を見開いたが、すぐに其れを閉じた。その真っ暗な世界では、自分の心臓の鼓動と、既に頭までに達した少女の指しか感じられなかった。

「ここやな……」

そう小さく言うと、彼女はおそらく取り出したハンカチか何かで僕の傷を拭いているのだろう、そんな感触が伝わってきた。髪の毛をていねいに掻き分けて、傷を拭き終わると、こんどはそこから流れていた血を、ハンカチでぬぐい始める。僕はその間、身動き一つとることが出来なかった。

「なあ…………」

かろうじて、彼女の声が僕の耳に届く。

「ん……?」

「今日…………帰ってまうんやよな」

「………………」

僕の血を拭き終わったのか、少女の手が僕の首筋で止まる。

 少女の細い息が僕のうなじに柔らかな風を与えた。そのたびになんだか気恥ずかしくなって、両手をぎゅっと握った。

彼女が今どういう表情をしているのか、其れさえも知ることはできない。

少し振り向けばいいだけの話なのに。

 少しの間の沈黙が、通り過ぎた。

「………………花火…………見ような…………」

僕は目を瞑った。

「…………………………………………うん」

「…………うれしいわ」

「…………………………」

「約束やよ………………絶対やよ…………」

「…………………………」

それからまた、沈黙があった。

不意に、首筋のハンカチが離れる。布のすれる音と下駄が砂を踏む音が聞こえたのもまた、同時であった。

「あっ」

間抜けな声を発して、僕はとっさに後ろを振り向いた。しかしそこには何の姿もない。そう、既に少女は駆け出していたのだ。僕は、道路へとかけていく少女の姿を目で追う。

 鳥居をこえて埃っぽい道路へと躍り出た彼女は、軽い足取りでくるりと回転すると、まだ立ち上がれてもいない僕のほうへと体を向けた。腕を体の後ろで組んで、僕に顔を向けている。僕はあっけにとられていた。

 彼女は微笑んでいた。

「はよ行くよ!」

僕は慌てて立ち上がる。

「ど、どこへ?」

「川や! みんなの知らへんとこに冷てぇ川があるんやて。一緒に泳ぐんや! はよう!」

「一緒に泳ぐ、って…………」

しかし彼女はとても楽しそうに僕に笑いかけた。僕は少し照れくさくなって、思わず目を逸らしてしまった。

 するとそれに気づいたのか、少女は途端に道路を走り出してしまった。慌てて僕はその後を追う。後からついてくる僕に振り返って、少女は言った。

「川まで競争やでねッ! ドベちんは罰ゲームやよ!」

「えぇッ? ちょ、僕場所知らな……あ、ま、待ってよぉ」

僕は気づいた。既に太陽は雲の遮りから逃れていた事に。そのため僕の随分前を走る少女は、夏の太陽に照らされて輝いているようにも見えた。空色のワンピースが嬉しそうになびいているのが僕の笑顔を誘う。

 僕は勘違いしていたようだ。

 今まで沢山見た晴れの空も、

 憂鬱な曇り空も、

 そして、たまに見せる雨空も、

 全てが、彼女だったのだ。