五

 気がついたら、日が高く昇っていた。

 僕の家の窓から覗いたときよりも随分澄んでいる空に、いつの間にか入道雲がそびえている。

 心なしかここに来た時よりも暑いような気がする。走りまわる子供の姿もずいぶん減っているようだった。そう言えば、子供の喧騒によって気がつかなかったが、この辺りは波のような蝉の声がとても新鮮だった。なぜここに来る石段を上るときに気がつかなかったのだろうかと疑問に思う。

 神社の賽銭箱が、何処にもなじめずに置いてあることにもその時気づいた。

「どうしようね。お昼食べる?」

始めに立ち上がったのは彼女であった。僕も慌てて腰を上げた。急に隣に空白があき、取り残されたような気分になったからだ。

 石段を下りながら、そりゃあたべるよと僕が言うと、少女は少しの間考えて、

「どうやね。家で食べてかん? そうめんしかあらへんけど」

と少し小さな声で言った。

「君の家で?」

そうしてくれるのなら、今自宅が何処にあるのか分からず、外食しようにもお金と言うものを少しも所持していない今の僕にとっては願ったり叶ったりである。しかし……

「嫌か? それともなんや、自分家で食べんとあかんかね、やっぱり」

「いやそう言うわけじゃないんだけれども……」

「そうやないんやったら私んとこで食ってきゃあええやん。せっかくやし。そうめんしかあらへんけど」

そこで彼女は何かに気づいたように、はっ、と口を手で覆った。

「まさか、そうめん嫌いか?」

「違うよ」

不安そうに眉をしかめながら顔を近づけてきた彼女の動作が、なんだか少しおかしかった。

「ううん…………」

僕は逡巡する理由を口にしようかどうか何度も思案していたのだが、迷っているうちにだんだんその言葉は彼女が最も望んでいない理由のように思えてきたので、

「うん……じゃあ、お言葉に甘えてさせてもらうよ」

結局うなずいてしまったのだった。しかしその途端、

「そうか! じゃあこれから家、案内するわ! そうめんしかあらへんけど」

彼女の表情がぱっと明るくなったのは紛れもない事実だ。そして心なしか今までよりも少し軽い足取りで、嬉しそうに石段を先に下りていってしまった。

 その時彼女を追う僕の気持ちが、晴れ晴れとしたものになっていたということは、言うまでも無い。

 神社から道を二度ほど曲がった辺りに建っている木造の小さな家が、彼女の家であった。

「さあ、入りゃあ」

彼女はそういって少し興奮気味に僕を催促するのだが、やはり少しは抵抗してしまう。

「なんや? 親なら仕事でおらへんよ。はよ入りゃあ」

親も居ないらしい。僕が抵抗する理由はそんなことではなかったのだが、これ以上渋っていても仕方がないので、僕は玄関の戸を、がらりと開けたのだった。

 目の前には小さな部屋があった。その中央には丸いちゃぶ台がこの部屋の主のごとく置かれており、それを取り囲んで薄っぺらな座布団が三つ敷かれていた。そのほかは何もない。しいて言えば、小さな窓が二つ、とってつけたように存在するだけだ。そしてそこから差し込む日の光だけが室内を照らす唯一の光源であった。

「ここで待っとって」

僕を引っ張るようにして座布団に座らせた彼女は、そう言うなり部屋を出て行くと、すぐに手にそうめんの入ったボウルを危なっかしく抱えて戻ってきた。彼女が昼食べるために、既にゆでておいたらしい。机にごとりと置かれたそうめんは、氷水で引き締まって、窓からの光を辺りに拡散させるがごとく、きらりきらりと輝いていた。

「おいしそうだね」

「そうか? まあ茹でるだけやで誰にでも出来るわ」

とは言うものの、照れたように笑う彼女である。

 しかし白いものがはっきりと目の前に現れたことで、この部屋の薄暗さが更に目に付くようになる。そりゃあ、小さい窓からの日の光だけでは暗いに決まっている。そう思いながら上を見上げると、丸い電球が天井から紐か何かでぶら下がっているのが見えた。しかし勿論の事、その電球に電気は流れてはいない。

「節約?」

僕はそれだけつぶやいただけなのだが、少女は僕の視線から何がいいたいのかをすぐに汲み取ったらしく、

「違うわ。普通電気なんか夜しかこうへんやん。電球なんかつけようにもつけれへんよ」

とすぐに返してくれた。それで、昼間はこうやって窓の光だけを頼りに生活しているわけか。

「ほい、箸と、それからたれ」

そういって二つのものを彼女は渡してくれた。

 頂きます、と言って、僕はそうめんをたれにつけて食べてみる。

「ん、あまり食べた事のない味だね」

「たれがやろ。醤油で作るんや。うまいか?」

僕はその問いに、迷うことなく首を縦に振った。美味くないはずがない。

 すると彼女は、そうか、と言って嬉しそうに笑った。

「君は? 手が止まってるけど、食べないの?」

「え? ああ、食べるよ。もちろん」

少女がそういって、箸に手を伸ばそうとしたその時である。

 家の外から喧騒が僕の耳に伝わってきたのだ。

「なんだか騒がしいね」

「ああ」

彼女は外から聞こえる沢山の声を気にもせずに、そうめんをすする。心なしか、その表情が少しばかり曇っているようにも見える。

「あんなん気にせんでもええよ。どうせまた進駐軍が来ただけやろうで」

「心中群?」

どうやら、外から聞こえてくる声は子供のもののようだ。わいわいと聞こえてくるからして、おそらく人数も結構な数に違いない。

「気にせんでさ、はよ食べや」

そう言うのだが、僕としては外の状態を知らないと収まりが悪いので、表情の変化した少女のことも考えながら、言ってみる。

「でも、僕……」

「おい! お前も来いや! どうせ家ん中におるんやろ? はやくせんと行ってまうぞ!」

僕の声をさえぎるようにして響いたその声は、どうやらこの家の玄関方面から発せられたようだった。外から聞こえる喧騒と同じく、子供の、男の子のようであった。

 僕の目の前の少女の眉は、その声を聞くなりむっとしかめられた。

「いかへん! それに今家にはお客さんがおるんや、うるさくせんといてちょう!」

しかし、僕は外がどうなっているのか知りたい気持ちで一杯であった。少女がこれほど行かないと豪語する原因はなんなのか、其れを、知りたかったのだ。

 僕は恐る恐る、立ち上がる。

「ちょっとだけ、見てくるよ」

そう言うと、少女の返答も待たず、僕は部屋から抜け出した。

「あ、ちょっと、まってっ」

という声が聞こえたが、すぐに戻るつもりだ。少しなら大丈夫。

玄関の外には、一人の少年が立っていた。おそらく、先ほどの声の主はこの子だ。家から飛び出してきた僕を見るなり、丸刈りで元気そうなその少年はすこし吃驚した様子で僕に声をかけてきた。

「お客さんてお前さんのことか? なんや、髪の毛かっとらんのか。モボならもっとええ服着とるんやろけど。まええわ、ここの子頑固やでな、絶対出てこんで。お前さんだけでも行くか」

「行くって、どこへ?」

「はあ? なにいっとるん、あそこにきまっとるに」

といって呆れた様子で指差した先には、道に止まった一台のジープがあった。そのまわりで、何人もの子供がわらわらと群れをなして口々になんらかを叫んでいる。喧騒の正体はこれだった。

 少年は僕を見据えて、言った。

「行くべ」

「待って! そんなんの言う事聞かんでもええよ」

僕の後ろからそういう女の子の声が聞こえた。思わず振り向くと、そこには僕を追いかけてきた少女の、ふくれた顔があった。

「この人は最近遠くからこの町にきたんや。やでこの辺の事知らへんのや、変な事教えんといて」

少し険がこもったその声は、ぼくを挟んで少女の向かい側の、少年に向けられているようだ。僕は少しばかり吃驚していた。少女の表情にである。

 かと思うと、こんどはその手が僕の腕をぎゅっと掴む。

「あれはな、あのジープに乗っとんのはな、進駐軍ゆうて、アメの兵隊なんや。ここにおる奴らはそのくろんぼと手つなごうとしとるんやで」

「手つないでなんかおらへんわ! 菓子もらっとるだけやろ!」

「おんなじや! いちいち私のとこにそいつら来たなんていわんでもいいやん! もう、こんといて!」

少女の声も少年の声も、次第に大きくなる。少女の声などは噛み付くようなものにまで大きくなっていた。そして僕といえば、何がどうなっているのか分からず、ただただ不安げに成り行きを見つめているだけだ。

 ふと見ると、土煙を巻き上げながらジープが行ってしまったところだった。そこにたむろしていた子供たちは、一通り用事が済んだためか、こんどは熱のこもり始めてきていたこちらの二人の言い合いに興味をそそられたらしく、手に手にチョコレートなどを持ちながらぞろぞろと近寄ってきていた。

「来んなやと! この意地っ張りが。お前のせいで行ってまったやないか、俺だけもらえへんかったわ!」

「いい気味やわ。だから私なんかかまっとらんでええ言っとったんや!」

次第に子供たちがぞろぞろと僕たちの周りを囲んでくるほど、僕の不安は高まってきていた。少年のほうも少女のほうも怒りにまかせて、言い合いをやめようとする気配がない。

「もうお前なんか知らへん! かってにしとりゃええわ」

「構ってもらうのなんか、私かて願い下げやわ! アメに尻尾振って魂売ってまえばいいんや! あんたら全員阿呆やわ!」

「なんやとッ!」

少女のその言葉に、少年は黙っていなかった。そして、その取り巻きの中にもまた、少女に対してよい意見を持っているものは殆ど居ないという事が、ざわつき始めた嫌な雰囲気によって知ることができた。

「勝手な事ほざきくさりよって! もう許さんで!」

少年の怒りが頂点に達したようだ。僕を押しのけ、少女の前に立つと、気丈に振舞う少女に向かって、こぶしを振りあげる。

「殴れるもんなら殴ってみい!」

だめだ!

 とっさに感じた。この少年は本気で殴るつもりだ。体格も結構いい少年だ。こんなヤツに殴られでもしたら……

 周りの野次馬たちの中にも止める様子の者は誰一人としていない。少年は憤怒の表情でこぶしを振り上げている。そのこぶしを、少女は見上げている。だめだ。少女の怒りの表情。

だめだ。

 だめ

 僕は立ち上がった。そして、今にも殴りかかりそうな少年には目もくれず、少女の腕をがしりと掴んで、周りの野次馬たちへと頭から突っ込んだ。周りに立ちふさがった子どもたちを少しかがむようにして掻き分け、時には突き飛ばして、僕は走る。時々せき止められそうになったり頭を強く打たれたりしたが、少女の手首を掴むその手を離すことは決してなかった。

 兎に角、走った。

 後ろから石を投げられようが、其れが幾つか頭に当たり、生暖かい感触が頭皮を伝わろうが、力任せに走った。

 少女の腕を、強く握っていた。

 そうして僕たちは子供たちの壁を突き抜け、後を追ってくる少年一向から必死の思いで逃げ延びたのだった。