四
土ぼこりの上がる道の両側に畑が広がり始めた頃、僕らは古ぼけ黒ずんだ石の鳥居をくぐった。神社は山の一角に建てられているらしく、木を切り開いて、幅のある石段が風格のある鳥居の奥へと続いていた。両側の木々の枝が日光のすじをゆるゆると揺らしていた。其れよりも、こんな山が近くに存在していただろうか。
そんな疑問を抱きながら、段差の高さが微妙に違う石段を上り終えたのは、インドア派の僕の脚に十分な疲労を蓄えさせた頃であった。
「ここや…………って、あんべええか?」
僕よりも先に進んでいた少女が振り向いて、すぐにその顔が心配そうなものへと切り替わった。しかも、殆ど息を切らさずに、である。信じられない。
僕は首を横に振ってから、深呼吸をして、心臓の激しい鼓動を抑えることに努める。勿論、シャツの半袖を引っ張り伸ばして、吹き出た汗をぬぐう事も忘れてはいない。
猫背気味にかがんだ僕の目の前には神社を中心にした広場が映っていた。その風景の上には、沢山の子供の駆け回る姿がせわしなく行き来している。元気だなあ。階段を上り始めた時から聞こえていた喧騒が、ここでは更に活発に僕の耳を刺激した。先ほどまでの閑とした空気など、嘘のような雰囲気であった。
「みんなここで遊ぶんやて」
どうもそのようだ。僕は落ち着きを取り戻し始めていた。
広い境内だ。水平にならされた地面に、少なくとも大きな家四件ほどは建つだろう。そしてその一件分は、木造の神社に使われているのだ。隣には小さな社務所があるのだが、その中に人影は見えなかった。
「君は疲れないのか……あの階段で」
広場を包む木陰の一角の中で、僕はごつごつした幹にもたれかかるようにして座っていた。脚をだらしなく伸ばしている。僕の隣に立つ少女は其れを聞いてあははと笑った。
「いつも来るでな。慣れてまった」
そう言えばついさっきそのような事を言っていたのを思い出した。
僕は、疲れた脚をいたわって優しくさすりながら、境内で楽しげに走り回る少年少女を流すように眺めていた。僕くらいの大きい子も居れば、はたまた幼稚園児くらいの小さな子まで居る。どうやらそれらの中にはいくつかのグループがあって、かくれんぼや鬼ごっこなどの違った遊びをしているようであった。
「この辺は蚊が多いでな。気いつけやあよ」
そんな事を微笑みながら言われても困る。何か痒いと思ったら、知らないうちに沢山の場所を蚊にさされていたのか。油断した。
「こればっかりは……どうにもならないなぁ」
言いながら、首筋をぽりぽりとかく。
女の子はそうやってぶつぶつと不平をもらす僕から視線を逸らし、立ったまま木の幹に体を預ける。その様子を見上げてみると、どうやら彼女の視線は思い思いに遊ぶ子供達へと注がれているようであった。
「こんなん見とったら、あんなひどい事なんて嘘やったんや無いかって思ってまうな……」
そう言う呟きが僕の耳へと流れてきたのは、僕が彼女から目を逸らしたすぐであった。しかしその声は、明らかに僕に向けられたものではなかった事に僕は気づいていたのだ。
ひどい事とはなんなのか、それを訊いてみたいという思いにも駆られたが、其れを実行する前に、少女の言葉によってさえぎられてしまった。
「なあ、あんたの住んどるとこって、ここよりもずっと発展しとったんか?」
唐突に何を訊いてくるのか。しかもそれは、まるでこの地方以外のことは全く知らないと言っているように聞こえる。そう言えば先ほども、文字の事でそう言うような質問をしてきていた。
「うん、まあ…………」
発展と言うか、土が見える道路は無かったし、家だって鉄筋コンクリートだった。しかしよく考えれば、そのすぐ近くからここに来たのだから、なんだか変な気分になる。
「新しい服は買えたか?」
「うん。まあ僕は無頓着だからあんまり服屋とかには行った事無いなあ」
すると少女は吃驚したように僕を見つめてきた。僕はその表情を見て、少しの不安を持った。何か悪い事でも言っただろうか。あまり考えずに言った言葉だから、何か傷つけるような単語でも入っていたのだろうか。
「へえ、たまげたなあ!」
「は?」
「ホントに新品の服? はあ、普通に買えるんか、ええなあ」
少女の表情は嬉々としたものであった。対して、僕の表情は少しほっとすると同時に困惑したものであったに違いない。予想外の返答だった。
「普通に買える? 普通に買えないの?」
「当たり前やないの! 一ヶ月働いてもらえる給料と、ほとんどおんなじなんやで。買えるわけないやん」
その途端、僕の心の中に後悔の念が押し寄せてくるのが分かった。
「そうなんだ…………ごめん……」
僕は何も考えずに、やはり彼女に対してひどい事を言ってしまっていたのだ。僕は首筋から手を離し、首を俯かせる。
「なに言ってんの?」
「へ?」
しかしやはり、彼女は僕の思いに反する行動を仕掛けてきた。僕は思わず顔を上げた。今回二度目の困惑である。
「この辺はそれが普通やて。お金なんかあらへんよ」
「でも、その服だって……」
「これ?」
彼女は自分のワンピースをつまんで見せた。それだって、確かにところどころ糸のほつれはあるが、立派な服である。
つまんだまま、少女は空色の其れをひらひらと揺らした。この位置からだと、中が見えそうで怖い。
「これはな、母ちゃんの古くなった木綿のかすりの着物を仕立てなおしたんや。家にあるのはみんなそんなんばっかやて。それが嫌とは言わへんよ。これだってお気に入りなんやし。母ちゃんがわざわざ私の為に作ってくれたんやし。でも、嫌とは言わへんけど…………」
言葉が最後へ行けは行くほど、声が次第に小さくなっていくのが目に見えて分かった。僕は、知らない間に、脚を両腕の中にたたんで、両手をしっかりと握り締めてしまっている。
少女の口がゆっくりと動いた。
「……一度でもええで、新しい服が欲しいんや……」
僕は、その時の、俯いて、かげりの生まれた彼女の表情を、恐らく生涯忘れる事はないだろう。その時の眉があまりに切実で、瞳が、妙に潤っていたように僕には見えた。そしてやはり知らず知らずのうちに、僕は掌が真っ白になるほど強く両手を握り締めていたのだった。
暫くの間僕は彼女から目を逸らせずにいたが、彼女は僕の視線に気づいたのか、慌てて木の幹から背中を離すと、僕に向かってはにかむように笑顔を浮かべて、
「いや、そんなお願い、いかん事なんや。こんな時期やし、あんたがちょっとうらやましかっただけなんやて。わるかったなあ、忘れといて」
とまるで釈明でもするかのように言い、終わるや否や、僕の隣へとすとんと身を落とした。空色がふわりとゆれて、脚に落ち着いた。
僕は、寂しいと思った。しかし、その思いは本当にこの世界で、僕の中で、彼女に対して、正しい事なのだろうか。
彼女はただ僕の隣で、頬を少し赤く染めるのだった。