三
誰かの家の前に、投げ出すように無造作に置かれた縁台の上に、僕は腰を落ち着けていた。
「やっぱりな。私さっき、あんたがここの人やあらへんと思ったんやけど、やっぱりそうやった」
女の子は僕の隣に同じように座って、無邪気にころころと笑っていた。背は僕より少しばかり低いようだった。
彼女はその黒い髪を、今ではあまり見かけなくなったおかっぱに切りそろえていた。そこから覗く小柄な顔は少しばかり土気がついたように汚れていたが、くりくりと丸く、潤った双眸や、ほのかな赤みの頬だけでも、彼女の本来の、その田舎娘のような可憐さを見取るには十分すぎるものであった。
その彼女が身に纏っているものと言えば、かすれて糸が所々ちぢりになった、空色の粗末なワンピースであった。生地は木綿だろうか。袖なしのワンピースから伸びる腕や脚は少し細く、まるで強く握ったら壊れてしまいそうなか弱い印象を抱かせた。そしてその娘に対して何故か、いいようの無い何かを、僕は刹那、感じた。
「ここの人じゃないって?」
僕の声に反応して、女の子は指差した。僕がその先を追うと、其れはあの看板であった。
「どこにあれを左から読む奴がおるか」
「ああ、…………じゃあ服屋なのか、あれは」
「そうやて。やで、この子はこの辺の人やねえんや、て」
楽しそうにそう言って、文字が右から書かれた不思議な看板を不思議そうに見つめる僕に、彼女は好奇心のあらわれた声で言う。
「ほんでも、このごろは右からの字よりも左からの字のほうが多いみたいやね。そんで、あんた、字の読み方が違うとこから来たんやろ?」
それはここのことではないのか。しかし、ここの人達から見れば僕らが違う読み方をする人と言う事になるのか。僕には詳しい知識が無いので何もいうことはできない。
「まあ、横に書かれた文字を右からは読まないよ」
「へぇ、そんな所もあるんやなあ」
と、妙に感心した声を上げる女の子である。そんなに珍しい事か。
「そんで、なんでこんなとこに来よったの? なんか用事か?」
「うん。まあそんなもん。今日のうちには帰りたいと思ってるけど」
「ふぅん、じゃあすぐ帰ってまうんやな」
すると、女の子は深く考え込むように顔を鹿爪らしくして、何かを呟いた。その声を聞き取る事はできなかったが、女の子はすぐに顔を上げて、にこりと笑った。
「じゃああんた、花火って見たことあるか? 花火やよ」
「花火?」
「知らへんか。夜な、空にな、ドーンって綺麗なお花がさくんやて」
「其れは知ってる」
身振り手振りを交えて教えてくれる彼女だが、そこまで興奮するものだろうか。いまどき別に珍しくも無いような印象が僕にはあるのだが、この少女には其れがあまり無いようである。
「知っとんのか。じゃあ、見たことあるか?」
そういわれると今年はまだ一度も拝んでいない事に気づいたので、まだ無い、と言うと、女の子が嬉しそうにいった。
「今日の夜やるんやって、こっからも見えるよ。すごい高いところに飛ぶんや。どうせなら、其れ見てからにしやあ」
「帰るのを?」
と言うと、彼女は嬉しそうににこりと笑いながらうなずいた。
「ほんとにすごいんやよ。元の家に帰る前に、この町での思い出でも作ってきゃあ」
まあ、一日くらいこうやって、あまり知らなかった町並みの中で過ごしてみるのもいいかもしれない。夏休みと言う長い休みだし、いつも花火などは部屋の窓か、隣の駐車場などで一人で見ることが殆どだったのだ。そうやって考えてみると、僕はこの女の子のように、花火に対して前向きな気持ちを抱いた事がこれっぽっちとして無かったように思う。せいぜい音が大きいな程度の感慨しか浮かばなかったのである。
其れが、目の前の女の子は、多分僕がまだ一度も花火を見たことが無いんだと勘違いして、見せてくれようとしている。そんな気持ちも僕はいまだかつて持ったことが無かった。僕は今一度隣の女の子の横顔を――嬉しそうなその横顔を、眺め見てみた。そうして僕は、この町の夏が何故か、僕が今まで体験してきた夏よりもずいぶん涼しい事に気がついた。
そんな事を思いながら、何処の誰のものともわからぬ縁台の上に座っていると、何処からか鐘を鳴らしたような高い音が聞こえた気がした。僕がその方向に目を走らせるより先に、女の子が言った。
「チンチン電車や!」
僕は其れに続くように、顔を向けてみる。確かに車両が一つしかない電車が、道路の真ん中のレールの上を走ってきていた。
チンチン電車、聞いたことがあるな。とそう思っているうちに、その赤い電車は依然としてチンチンと音を鳴らしながらゆっくりと近づいてきた。よく見るとその電車の天井からは細くて長い棒が斜め上に飛び出しており、その先は、張り巡らされた電線の一本に繋がっていた。
「あれは?」
「チンチン電車やよ。あの上の奴の事? そんなもん、電気を引くためのにきまっとるやん。やないと動かへんもん」
そして僕らの前をその電車が通り過ぎていった。窓から覗いた限りその中は満員で、仕方なしに、扉の外の棒に掴まって、風を感じながらのっている人も沢山居たことに、僕は少々驚きを感じた。
やがて其れは行ってしまった。音が遠ざかって行くにつれ、赤塗りの電車や、古ぼけた生地の洋服を着る男の人などは次第に見えなくなっていった。
「ちょっと、あっち行ってみよか。ここにずっとおってもしゃあないし」
僕は見えなくなる電車の背中を目で追いながら、その言葉に何気なくうなずいた。
「あっちにはお宮さんあるでね。多分みんなおるよ」
その声が聞こえたその時、縁台の上に置いていた僕の手に、何か柔らかな感触が触れた。吃驚してみてみると、女の子が僕の手を握って、はよいこ、と催促する姿があった。
今までに出会った事の無い出来事に戸惑いながらも、僕は少女に腕を引かれ、道路を歩いていった。途中、一度だけ黒い自動車とすれ違ったが、その自動車の側面には、不思議な機械のようなものが設置されていた。少女が言うには、それは木炭車という種類の車で、その横に設置された機械のようなものに木炭を入れ、其れによって走るというしくみのものらしかった。
そう言えば、今までもこんな大通りなのにも関わらず、車を殆ど見かけた記憶が無かった。すれ違ったものといえば、何台かの自転車程度のものである。
ある程度進んだところで、僕たちはわき道へと入って行った。とはいっても結構な広さがある。しかしこの道もやはり、舗装だけはされていなかった。そこを歩く事によって、僕は先ほどまでの道路が、そこまで埃臭くは無かった事に漸く気づいたのだった。
「すごい砂埃だよ。こりゃひどいね。どうしたものかな」
「そうやな、まだ散水車きとらんのかな。埃臭くて堪らんね」
そうやって、顔をしかめる女の子である。舗装してしまえばこんな事はなくなるだろうに。
「散水車って? 水をまいたりするやつ? 推測だけど」
「そうやよ。あれがこやあ、ちいとはましになるんやけどね。この砂埃も」
そういって笑う女の子の、柔らかく仄かにあたたかい掌を感じながら、僕は誘われるように足を動かした。ふと目をやると、少女は薄っぺらな下駄をはいている。その下駄で踏みしめる地面から舞い上がる細かい砂の粒子が、その細い足首を包み込んでいるようで、僕は、いいようの無い不安を一瞬だけ感じたのだった。