二


「この暑さは…………死んだほうがいいな」

なかなか宿題が進まない。既に、僕の部屋に掛かっている壁掛けカレンダーの日付は、後一週間程度でこの中学二年生の夏休みが終わってしまうという事を表していた。

 僕は憎々しげにペンの端をくわえた。夏の暑さというものはどうも集中力を拡散させる力を持っているようである。南東二つの窓を開け放っているというのにそこから入り込んでくるものは、不快感を催す生ぬるい空気の塊と、蚊だけなのだ。これでは肌を伝う汗が乾く以前の問題である。朝からこの調子では、これから日が高くなっていくにつれ上昇する気温についていけるかどうか不安であった。

 僕はどちらかと言うと物事は後に回してしまうほうで、そしてその性質によって何度も徹夜を経験した覚えがある。其れなのに早め早めに物をしようという気にはなれないのだから困りものである。

 このままではいけない。手が進まない。ある程度街中であるこの一軒家の一室では、空気が悪すぎて、宿題である数学の終わり三、四問にさえも手を付けられない状態である。僕は気分を変えることに決めた。

 とりあえず部屋の窓を閉め切り、日光が部屋の中へと入り込まぬようにカーテンも閉め、クーラーのスイッチを入れておく。その上で僕は蒸し暑い家を後にした。

 部屋が涼しくなるころあいを見はからって家へと舞い戻ろうという作戦である。そして其れまでは、この肌を持ち上げていくような外気の熱にも耐えねばならない。僕は全身の肌からほとばしる汗をしきりに腕でぬぐいながら、なるべく建ち並ぶ家の落とす影の中を伝い、狭い道路を歩いた。

 無意味に歩き出したはいいが、行くあてがあるわけでもない。しかし部屋が涼まるまでの辛抱である。とりあえず近くの空き地にでも赴いてじっとしていようと決めた。関係ないが、この街中で空き地が存在すると言うのも結構なものだと思える。すぐ売れてしまいそうなものなのに。

 空き地には、既に先客がニ、三人ほど居た。みな、顔見知りの者である。夏になって雑草の伸びが速くなり、夏らしい緑を地面に敷いた空き地の中で、そのニ、三人が楽しそうにかけっこに興じていた。僕はあまり体を動かしたい気分ではないので、広さが結構ある空き地の隅へと、かけっこの三人を避けるようにして進んだ。空き地の隅には、大きな木陰があるのだ。朝のラジオ体操の時間でも、僕はその木陰を占領する。

 しかし進んでいくにつれ、そこにも既に先客が居る事に気づいた。僕がいつもするように、木の根元で足を組んで座り込んでいる。恐らく、女の子であろう。

 そして案の定、知り合いであった。

「四葉だな。こんなところで会うなんて、奇遇だな。そこ、いいかい?」

僕がそう話しかけると、座っていた少女は始めて僕の存在に気がついたかのように、目を開いて僕をしっかりと見据えた。短く切りそろえた飾り気の無い髪が、逆に彼女の端正な顔を引き立てているとも言える。

「たらおじゃない。どうしたの。こんなところに来て」

ちなみに僕の中学校でのあだ名をたらおという。たらの二文字が本名に入っているわけでもないのにそんなあだ名がつくとは不名誉である。しかしその不名誉に甘んじている僕が居るのだから致し方ない。

「どうしたのじゃないよ。四葉の隣はあいてるかって聞いてるんだ。僕の部屋がクーラーで涼しくなるまでの間だけね」

そう言うことなら、といって、四葉は僕のために少し体を横にずらした。僕は日光と四葉の間へとゆっくり滑り込む。

 僕は隣の四葉がしているように、半ズボンから覗く足を組んだ。隣を伺うと、四葉のほうも袖の無いシャツから覗く日に焼けた黒い肌に、沢山の汗の玉を浮かばせていた。僕とそこまで大差ない状態である。

 背中に当たる太い木の幹が冷たくて、気持ちが良かった。四葉にその事を言ったら、軽く微笑み返された。

 こちら側から空を仰いだとしても、太陽の光をうかがうことはできない。せいぜい嫌みに晴れ渡った空を見上げる事になるだけだ。それだけでも十二分にまぶしいと言うのに、太陽はこれ以上外気を温まらせてどうしようと言うのだろうか。なんにしても、部屋が涼まるまでの間は、ここでクラスメイトと肩を並べて他愛ない会話をするに他は無いのだ。

「たらおって、今年の夏休み何か面白い事あった?」

「外出とか旅行とか行ったかって、そう言うこと?」

「其れに限らずさぁ。私は家族で海に行ったよ。毎年行ってるんだ。ここから電車ですぐのところ。ほら、この街って意外と海に近いでしょ」

「うん」

「浜辺でキャンプしてね。それでほら、こんなに焼けちゃったの」といって自分の腕を何処か誇らしげに僕に突き出す四葉。

いまどきにしては珍しい女の子だと思った。たいがい日焼け止めクリームなどを使って黒くなるのを嫌がるだろうに、この人はそう言うことは全く無いらしい。

「黒いね」

「うん。それで、たらおは?」

「うん?」

「楽しかった事」

「ああ」

正直なところ、あまり思い出に残るような事をこの夏休みの間にした覚えは無かった。それどころか、この中学生生活の間、それほど楽しいと思える時間が無かったのがこれまでの事実である。とはいっても、何も無かったと言うのも考え物なので、とりあえずクーラーがやっと家にも取り付けられたと言う事を話した。

「え、たらおん家って今までクーラーついていなかったの? 本当に? じゃあ今までの夏は?」

オーバーに驚く四葉であるが、そこまで大袈裟にすることも無いのではないか。これまでも無事にやってきていたのだ。しかしクーラーを常時使用している人間にとって、クーラーが無いという事はやはり驚くべき事実なのだろうか。

「扇風機。冷蔵庫で冷やしたシャツとか」

冗談半分でそう言うと、案の定四葉は笑ってくれた。

 少し嬉しかった。

 それから、部屋にかけっぱなしのクーラーの事も忘れて、僕たちは暫くの間会話を弾ませていた。木陰の角度がだんだんと変化していくのにも気がつかなかった。

 暫くして、僕は漸くつけっぱなしにしてきていたクーラーの事を思い出し、立ち上がった。

「じゃあ僕はそろそろ帰るとするよ。部屋も冷えた頃だろうから。四葉は、まだここに?」

「うん。じゃあね」

四葉に声をかけられながら、僕は空き地をたった。

 ずっと動かなかったから、汗も少しは引いていた。こういう風に生活していれば、自然と暑さを凌ぐ方法などは見つかるものである。これは、僕の経験からの事柄だ。

 こんな道路は車さえ通らない。僕は淡々と細い道路を家に向かって歩いていった。帰ったら涼しい部屋でさっさと宿題を済ませてしまおう。そしてあとの一週間は、寝るのだ。それにしても詰らない夏休みである。

 しかし、僕の希望とは裏腹に、なかなかそれらの前提であるしょぼくれた家が見えてこない。

 いつも通っている道である。間違うはずが無い。普段ならニ、三度曲がり角を曲がればこの辺りでは特徴的な赤い屋根が見えるはずである。そう思って何度か手ごろな曲がり角で方向を変えてみたが、一向に僕の家があらわれる兆しは無かった。

「…………おかしいぞ……」

もしかして、近所で迷ってしまったのだろうか。

 確かにこの辺りは本通りから外れた裏の細道が粗不規則に走り回っている構造をしているため、今自分が何処に居るのかと言う事を認識する事は難しいとは思う。

 しかし近所だ。家が目と鼻の先にあるというのにそこに辿り着く事ができないとはとんだ間抜けである。

 後は、自分の方向感覚を頼るより仕方ないか……と、少し気落ちして、先の三叉路を右へと曲がった時である。

 そこに広がっていたのは、車が三台通っても全然平気そうな幅を持つ大通りであった。

 あれ、この辺に大通りってあったっけ……

 そう思うと同時に、その大通りの様子が少しばかりおかしいと言う事にも気がついた。

 電信柱はある。空も、少し透き通っているような気がするが、普通だ。

 おかしいのは、例えば、舗装のなされていない、土の地面がむき出しの道路。そこから舞い上がる砂埃のせいで、相当埃っぽい。そして、木造の家々。僕がこの大通りに出てきた細い道も、それを挟む二つの家の間にできたもので、道の両側は当たり前のように、寂れささくれ立った木の板の連続であった。大通りを覗くと、壁が傾いていそうな背の低い木造建築がぽつぽつと並んでいた。僕の家の近所に、こんな町並みが残っていたのか、と僕は妙に不思議な気分になった。イメージは、昭和。戦後何年かで復興しかけの微妙な落ち着ききらない空気と、その時代の経験者でなくとも何故か懐かしさを感じる温かみのある雰囲気だ。地面の黄土色と古めかしい家の壁の色とが、何処か似ていて、素朴である。

 とりあえず、歩こう。

 先ずは交番を探すのだ。そして、僕の家の存在する正確な位置を教えてもらう事にしよう。

 そうして僕は、少しの不安と大きな好奇心とによって、体を動かしていったのだった。

 しかし、いくらあるいても町並みは変わらなかった。それどころか歩くごとに砂埃は舞い上がるわ、其れが煙いわで、僕は始終しかめ面を守っていたように思う。そして、コンクリートとアスファルトでできた僕の町に、本当にこんな木造建築や舗装さえされていない大通りと言うものが残っていたのだろうか、という当然の疑問が、僕の心をしめる範囲を大きくしていったのである。

 大通りに沿って歩く。あまり人は見かけない。殺風景で目のやり場と言うものすらないので、僕は道の片側の家を観察しながら進んでいた。しかし、その家々の中に、扉が無い家があるのはどういうことだろうか。大きな窓などにも、その家の子供のいたずらか、手ごろな大きさの穴が所々にあいた障子が閉められているだけである。

 これでは泥棒に「入ってきてください。まってます」といっているようなものである。自分の身は自分で守らねばならない物騒な時代だというのに、これではあまりにも無用心すぎるであろう。せめて鍵くらいつけてもよさそうなものだが、扉から無くては鍵がどうこうと言う以前の問題である。そう言う同じような様子の家を何件か通り過ぎた時、丁度交差点へと出た。

 アスファルトで舗装された結構な幅を持つ道と、僕が通ってきた砂埃の道が十文字に交差している。横に交わる舗装された道の中央には、何故かレールのようなものが敷かれていた。

「なんだこりゃ。電車でも通るのかな」

しかし電車が通るだけにしては、この道幅は広すぎるように見える。

 舗装された大通りの両側の、これまた木造の、歯抜けのような連なりを眺めながら、僕は線路の上を歩いた。先程の土の道路とは違い、こちらにはところどころお店のようなものが存在するようだ。しかし、通常の民家とそれを見分けるための違いというものは、軒先に立てられた粗末な旗や、その屋根下の壁に打ち付けられた、半分はさびてしまって今にも崩れてしまいそうな看板の有無だけであった。

 古めかしい色を使ったその看板は、先程も言ったように殆どさびてしまっていて字が読めない。しかしその中の一つがふと目に留まり、僕は足を止めた。

「店服洋竹清………………?」

字としては読めるのだか、意味は全く分からない。その横長の看板は誇らしげに、その店を宣伝する役割を担っているのだ。そして僕が視線を下げると、狭い店内に、白に黄色い花柄の見慣れぬ服などが飾ってあるのが見えた。

「もうじき電車来るで、そこにおると危ないよ」

急に後ろから聞き慣れぬ声がして、振り返った。そして、その声を発したのが、いつの間にか僕の後ろにいた女の子で、その声の向けられた先が僕であることに、気づいた。

「電車」

「? 電車やけど」

「やっぱり来るんだ。やっぱり」

「??」