五
「円次朗」
「………………」
「ねえ、円次朗」
「……………………」
反応が全く返ってこない。
廊下を歩きながら考え込むと言うのはいかがなものか。これでは壁に頭をぶつけても文句は言えない。
「ねえ、危ないよ? 考えるなら考えるで、止まったら?」
「……君」
突然円次朗の足取りがぴたりと止まる。コンタクトがとれたのかと、神無月は訊き返す。
「ん?」
「ちゃんと手は洗ったのかね」
「…………はい?」
一気に拍子抜けしてしまった。
「君、手洗いに行っていないだろう」
「だって、行くふりでいいんでしょ?」
「そうだが。しかしあの時間は早すぎる。少し早く見積もりすぎたようだな。警官を呼んだだけだということがばれてしまうぞ」
「そんなこと言われてもねえ」
しかし何故そんなことまで分かってしまったのだろう。まさか本当に時間の短さだけで判断したわけではあるまい。
「何でわかったの?」
すると、円次朗は神無月の膝辺りを指差した。
「スカートだ。膝より少し上の部分に、赤い糸がついているだろう」
「あ、ほんとだ」
緑のスカートに赤い糸は目立つなあ、と、神無月はそれをつまんでぽいと捨てた。
「女性が用を足す時は必ずしゃがむ。しかも君のスカートはそんなに長くない。つまり、君が本当にあの時用を足していたならその糸に気づいているはずなのだよ。スカートをたくし上げる事をしなくていいんだからね。しわのあいだに糸が隠れる事も無いわけだ。職員室では注目すべき点がほかにも沢山あったから、気づかなかったかもしれないが、手洗いなら、どうだろうか。恐らく九分九厘、見つけて、さっきの君のように何気なく取って捨てているだろう」
何気なくそれだけ喋ると、円次朗はまたキセルをいじり始めた。悩んだ時の癖らしい。
「そんなことまでわかっちゃうんだ……」
ちょっと驚きなのか呆れなのか自分でもわからない感慨を抱きながら、神無月はふんふんとうなずく。
「赤い糸は私が警官を呼びに外に出る前からあったってことね。ははん。つまり円次朗は私のスカートに興味があり、観察していた…………なるほど」
心外だ、とでも言うようにくるりとふり返る円次朗。眉が逆八の字になっている。それよりも、職員室を出て吉田先生と別れてから、初めて今彼の顔を見た気がする。
「馬鹿か君は! いいか、そんなもの偶然見つけたに決まっているだろう。君のような人間のスカートなどに興味があるものか。だいたいなあ――」
「そういえば、他の先生にも訊かなくていいの? 今回のこと。吉田先生だけじゃ不十分でしょ。これが殺人事件なら、なおさら」
言葉を中断された円次朗はすこし頬を膨らませて、
「…………君、順応性が良すぎるぞ……大体自分の通ってる学校で殺しがあって、それを平然と捜査する人間がどこにいる」
「そう思うなら私に捜査の手伝いなんかさせないでよ」
「それにしてもだ」
神無月はてへへ、と頭をかいた。
「けっこう慣れっこなのよね……中学の時も、よく」
「なに。経験があるのか……どうりで」
「って、そうじゃなくて、他の先生にも話を聞かなくていいのか、って訊いてるの」
「その点は心配ない」
「…………なんで?」
「……………………」
円次朗の沈黙。そしてキセルに手をかける。神無月は、ははん、と腕を組んでうなずく。
「吉田先生を疑ってるのね」
「まだはっきりとは言えない」
わからないわ、と神無月。
「さっき少し話しただけで、わかっちゃったの?」
「彼が犯人であることは間違いない」
「理由は?」
「自分で考えるという事ができないのか? 全く。脳は使わなければどんどん愚図になる。君の場合、さらに愚図になる」
「あんたねえ……」
「いいか、先ほどの吉田の――」
「日笠さん!」
警官の突然の呼びかけが円次朗の声をさえぎった。
二人はもう玄関まで来てしまっていた。この一帯には警官が未だに調査を続けている。そのうちの一人が、玄関にいる二人を見つけて呼んだのである。彼はすぐに駆け寄ってきた。
円次朗は説明的に上げかけた手を下ろして、その警官に目を向ける。
「なんだ」
「日傘さんの言っていたレインコート、これですよね」
少し上気したような若い警官は一度敬礼してから、そう切り出した。
手にもっていたのは真っ白なレインコート。被害者が着ていたものだ。
「後で見に行くと言ったろう。わざわざ持ってきてくれなくても」
「あ、し、失礼しました。まだ新参なもので……」
「まあいい」
円次朗はそれを受け取って、広げてみる。
警官は円次朗がいろいろと見回しているうちにも、なにやら喋っているようだ。
「いやあ、それにしても感動です。初仕事で向かった事件が、日笠さんの担当だったなんて……」
「正確にはぼくの担当ではない。ぼくは警察組織の一員ではないからな。現場を仕切る権利すらぼくにはない」
そう云う円次朗の目はレインコートに注がれたままだ。
「それでもですよ。いやあ、そこらへんの腹黒い上司なんかよりよっぽどマシです」
「あまりいい比較のされ方じゃないな」
「あ、いえ、そう云うことでは……」
慌てて弁解する警官だが、こんな若手にまで円次朗の名は知れ渡っているのかと、正直吃驚した。なので、
「あの、円次朗ってそんなに有名なんですか?」
思わず訊いてしまった。たれ目の若い警官は答える。
「そりゃあもう。署内では知らない人はいなくらいに有名人です。警察の方から捜査の依頼が行くこともあるんですよ」
「じゃあ、今回も?」
「そうですね」
へえ、なんだか見直してしまった。ただのチビで毒舌な嫌な奴ではないのか。
と、円次朗が何かに気づいたように、
「君」
と警官に呼びかけた。はい、と返答する警官。
「これ、襟に書いてある名前が吉田になっているが」
神無月も覗き込む。確かに内側の襟首の部分に黒いマジックで『吉田』と書かれていた。ということは、これは吉田先生のものなのだろうか。
警官は手帳を取り出してページを開く。
「被害者が着ていたのはそのレインコートで間違いありません。ただ、名前の部分は背中で隠されてしまうので、死体を発見した当初はわかりませんでした。脱がさないと名前が書かれているかどうかもわかりませんね。まだ確認は取っていませんが、恐らく吉田菊雄のものと見て間違いないでしょう。まあ、机が隣ですからね。屋上に出ようと思ったが雨具がなかった。だから仕方なく隣の人の雨具を使った、というところでしょうね」
警官の説明は耳に入っているのだろうか。円次朗の顔を見ていると、そう云う疑問がわいてきても仕方が無いというものである。
「………………」
キセルをいじり始めた円次朗の目は、いまやレインコートすら見ていない。その奥。何か考え込んでいるようである。
「………………君……」
「は、はい」
「ガイシャの着ていたカッパが吉田菊雄のものだと知っているのは?」
「警察の者だけだと思いますが……」
ふり返る円次朗。
「いいか、これから発見した事は、容疑者達には一言も漏らさないように警察の方へ伝えてくれないか」
「は、はい」
若い警官は一度背を伸ばして敬礼してから、玄関にたむろする警官達の方へと走っていこうとする。
「ちょっと待て。カッパ、持っていってくれ。くれぐれも容疑者達に見せないように」
「あ、はい」
レインコートを受け取ってからもう一度敬礼して、警官は玄関の外へと消えていった。
その後ろ姿を見送って、円次朗は、ふう、とため息ともつかぬ息を吐いた。
「なんか、変なことになっちゃったね。レインコートが吉田先生のものだったなんて……」
「…………どう思う?」
「どうって、さっきの警官が言ってた通りじゃないの?」
神無月のその言葉に、まったく、と呆れたように息をつく円次朗。
「まだ自殺だとか思っているのか君は。自殺だとすると、おかしい事がいくらでも出てくる。あれはガイシャのカッパではなかったのだぞ。いくら自分が雨具を持っていなかったからといって、わざわざ隣の机のどこにあるかも分からんカッパを使うか? それこそ下駄箱の傘を使ったほうが手軽だろう」
そう言ってから、円次朗は断言した。
「あれは犯人が着せたんだ」
「それよりも……おなかへったなあ……」
そういう神無月の細い声が聞こえたのか、円次朗はぎら、と神無月を睨む。
「今ぼくのいい台詞だったのに」
その時である。
「日笠さん、神無月さん」
二人を呼ぶ声。
ふり返ると、吉田先生であった。
吉田先生は優しげに微笑んで二人に近寄ってくると、
「もうすぐ昼です。何か食べますか? 購買は今日急遽断りを入れたので、出前を取るんです。二人の分もどうせだから頼みましょうか?」
「ナイスタイミングです!」
と飛び上がったのは神無月。
「かたじけない」
と会釈したのは円次朗。
「じゃあ、二人とも何がいいですか?」
「え〜と、私はですね、あればカツ丼で。あ、できればコーヒーも」
「ぼくは、吉田先生に任せます。おすすめの洋食を」
そう言って、にや、と笑う。そう云う笑みしか浮かべられないのだろうか。
「あの店はカツ丼が美味しいんです。じゃあ二人とも、カツ丼でいいですね。じゃあ、私もそうしましょう」
携帯電話を取り出し、番号を押す。
「少し待っていてくださいね」
廊下の陰へと歩いていき、なにやら話していた。そしてすぐに電話を切ると、二人のところへ戻ってくる。
「お待たせしました」
「いや、ありがとうございます。私、おなかペッコペコで」
お腹をさすりながら照れ笑いを浮かべる神無月。
「じゃあ、出前が届くまで少し質問してもよろしいですか?」
そう切り出したのは、意外にも吉田先生であった。円次朗は一瞬不思議そうに目を開いたが、すぐにニヤリと微笑んで、もちろん、と返答した。
「あの、職員室内の取調べというのは、するんでしょうか」
「取調べ? ああ、現場検証のことですね……………………しかし、なぜ」
「ほら、立ち入り禁止のテープを張るとか何とか……」
「ですからなぜ」
「生徒達の将来に関わる大切な資料なども沢山あるんです。なるべく触っていただかない方が……」
そういうことですか、と円次朗はうなずく。
「いや、安心してください。あれは人を入れないという意味合いですよ。自殺の線で捜査しているようですからね。職員室の現場検証があるといっても、恐らく中川先生の机くらいでしょう」
「そうですか…………」
神無月が見る限り、初めて職員室で話したときよりも挙動不審さが抜けている気がする。……円次朗は彼が犯人だと言う。だとしたら、どうやってそれを相手に認めさせるのだろうか。
「それが何か?」
「いや…………さっき日笠さんは生徒が犯人だ、と言っていましたよね」
「ええ」
円次朗は普通に接しているが、それとなく話題を逸らした事に神無月は気づいた。恐らく円次朗も相手に合わせているのだろう。
「しかし、仮に中川先生を睡眠薬か何かで眠らせたとしても、生徒の力で彼を屋上まで運べるでしょうか」
「そんな必要ありません」
「え?」
いいですか、と前置きしてから、円次朗は話し出す。
「彼の机の上においてあるパソコンをご覧になりましたか?」
「いえ……それがどうかしたんですか?」
「仕事が途中で終わっていました。つまり、彼はあそこで殺されたんです。パソコンで文字を打っている最中に、後ろから近づいてきた犯人に後頭部を……」
ゴン! と何かで殴るような仕草で円次朗は状況を表現した。
吉田先生はふむふむとうなずく。
「なるほど……それならそこから玄関外まで引っ張るだけですむ。引っ張り出した後は靴を屋上にそろえるだけでいい。階段を持ち上げていく必要はないわけだ」
「そうなんです」
しかし、と円次朗は自分の着物の合わせをつまんでひらひらと見せる。
「そこで問題になってくるのが、中川先生の服装です」
「服装?」
「はい。先生は第一発見者ですよね、見ていると思いますが、被害者は何を着ていました?」
「確か、白いレインコートを……フードもかぶって」
「そこなんです。なぜ犯人は中川先生を殺した後に、カッパを着せたのか……」
そこは神無月にも説明されていないことだった。円次朗が本当にわかっていないのかどうかは、彼女にもさっぱりわからない。
吉田先生は腕を組み、眉間にしわを寄せて考える。
「自殺に見せかけるためじゃないですか? ほら、昨日は大雨だったし」
「それも考えましたが、これから自殺しようとするものが、体がぬれるのなんか気にするでしょうか? そう云う考えを犯人がもてたなら、わざわざ時間をかけて死体にカッパを着せる理由がありません。おそらく、別の意味があったのでしょう」
そう言って、円次朗はニヤリと作り笑いを浮かべた。これでも気を利かせているつもりなのだろうか。そんな事を神無月が思うか思わないかのうちに、円次朗は玄関を指差して、
「どうやら出前が到着したようですよ」
六へ続く